川勝 カゲロウの研究が今西さんの博士論文となります。それをもとに書 
           かれた『生物の世界』は、すべての生物が「棲みわけ」をして関連してい 
           る。関連している全体を彼は考えた。「生物全体社会」で、のちに「ゲオ 
           ・コスモス」と言い換えられます。そして自然科学者を廃業。彼は自然科 
           学者として文化勲章を受章したのですが、上山春平氏をはじめ高弟諸氏が 
           反対されるなかで、自然科学を廃業すると言われた。 
           鶴見 それで自然学。 
           川勝 はい。自然科学はやめるが、学問はやめない。自分がその中の一つ 
           として入っている自然を学ぶ。つまり客体としての自然ではなくて、その 
           中に入っている主体として。 
           鶴見 それがバートランド・ラッセルがどうしても解決できなかった哲学 
           上の問題なんです。つまり自己をふくむ集団と、自己をふくまざる集団の 
           関係。自己をふくまざる集団として客体を見る。それが客観的真実をつか 
           む道である。ただそれだけ言っていると、自己はいつでも外にいる。そし 
           て自己をふくむ集団として対象を見ると、わからなくなることがあるけれ 
           ど、そうしなければだめだと。結局、それは量子力学が出てきたときの観 
           測の理論の問題で、哲学的にまだラッセルも解決できなかったんです。そ 
           の問題に気づいたけれど、『プリンキピア・マテマティカ』の中で解決で 
           きなかったんです。 
            そういうことがいまの社会学に全部入りこんでいるのね。社会科学、こ 
           とに社会学は自己をふくまざる集団として社会を見てる。それじゃあ、自 
           分はちっともよくならない。それで私、びっくりしたのは、この「解説」 
           の中で、私の言っている内的発展論というのは、自己を成長させる、自己 
           を発展させる、そういう学問だと。その問題なのよ。学問の究極の問題で、 
           ラッセルみたいにあんなに頭のいい人でも、それにぶつかったのね。 
           (鶴見和子・川勝平太『「内発的発展」とは何か』藤原書店/P.48-50) 
        科学的であることを客観的であることであるとして、 
          自分をそこに含まれていないかのようにふるまうならば、 
          それはある意味、自分を幽霊でさえないような存在としてしまうことになる。 
        しかし学問する主体というのは、幽霊ではないだろう。 
          幽霊でさえ、憑依して人に影響できるのだとしたら、 
          学問するということはきわめて主体的であり 
          そこに強く作用するということは考えてみるまでもない。 
        重要なのは、客観的であるとして 
          そこに自分の影響を見ないふりをすることではなく、 
          むしろそこにいかに影響するかに自覚的であるということだろう。 
          そうすることで、学問することは、みずからをも成長させ得るものとなる。 
          無自覚な場合、研究内容のなかに自分を幽霊化して 
          組み込んでしまうだけになるだろう。 
        量子力学における観測理論の問題というような例ではなく、 
          ごくごくばかばかしまでの例であるが、社会学などで 
          「調査」と称してアンケートをとって統計処理したりする場合、 
          まずアンケート設計そのもののなかに 
          色濃く自分をそこに入りこませてしまっている。 
          つまり、アンケート項目とその順序というのは 
          多かれ少なかれひどく恣意的なものなのである。 
          いかに客観性を装ったとしても、テーマ選択そのもの、 
          言葉の用い方そのものが最初からある方向性を持たせられているわけである。 
          ましてや、新聞社のよく実施し紙面で発表しているような 
          アンケート結果など、推して知るべしである。 
        テレビの視聴率などに関するひどく機械的な処理であるかに見える 
          メディアリサーチの結果にしても、それを客観的であると考えるとしたら 
          あまりにも素朴すぎる見方であろう。 
          その調査のためには、自宅のテレビ機器に事前に調査機器を設置する必要があり 
          、 
          設置する場合の条件などもさまざまに事前にチャックされることになる。 
          たとえば、ぼくのような広告関係者には少なくとも設置は許可されない。 
          そしてそれは客観的であるためということになっている(と思う)。 
          また、テレビはあるがほとんどテレビを見ない方の家であれば、 
          視聴率調査の機械が設置されることはまず考えにくい。 
        つまり、そうした場合の客観性によって導き出された結果というのは、 
          「客観的であるべき」と考えられた枠組みのなかで、 
          「こういうのを客観的としておこう」と 
          いわゆる業界内で取り決められた仕方で出されたものにほかならない。 
          もちろんそれらに意味がないということではなく、 
          それらが装われた客観性という物語のなかにあるという 
          自覚があるかないかで、それらの意味合いがひどく異なってくるということである。 
        まして、自己がそこに含まれていない学問というのは、 
          自己が含まれていないがゆえに、いくら学問を深めたとしても 
          自己を成長させることはできないことになるわけで、 
          むしろ自覚がそこにないことによってその学問は幽霊化し、 
          知らずにそれが自分に憑依してしまうことになってしまうかもしれないのである 
          。 
          ときに「科学的」であるという錦の御旗がふられるならば、 
          そこにそうしたものが憑依していると思ってさしつかえないだろう。 
          でなければ、というか、真の科学者であるならば、 
          常にある種の保留をそこにつけざるをえないだろうからだ。 
          「この範囲においてこの条件においてこうである」云々といったこと。 
      もしくは、「科学的ではない」というかわりに「科学では説明できない」云々。  |