風のトポスノート688

 

他律は人を幽霊にする


2009.1.21

 

鶴見和子と川勝平太の対談
『「内発的発展」とは何か/新しい学問へ向けて』
(藤原書店/2008.11.30)のなかで、
「内発的発展論」の第一の特徴が、川勝平太によって次のように述べられている

  内的発展論は生命あるものを対象とし、生命論としての特徴をもっ
 ている。生命はその本質において自律的である。人間は他人の生命を
 生きることはできない。自己の生命を自己の責任においてまっとうす
 る以外にない。自律、他律、無律とは、『曼荼羅』本巻の序に収めら
 れていたエッセー「最終の節目で出会うもの」で触れられているが、
 鶴見が示した興味深い生命の三つの様態である。「他律」の例として
 管理社会の組織人の生き方があげられ、「無律」とは眠っているとき、
 ボーッとしているとき、あるいは夢を見るときの状態のことだといっ
 ている。他律には批判的ながら、無律には直観の働く世界として価値
 を認めているのは興味深い。自律の対概念は、通常、他律とされがち
 であり、自律と他律の対照をいうのはたやすいが、無律というコンセ
 プトを出したのは鶴見の卓見であろう。鶴見にとっては他律的な生き
 方は論外である。自律の対概念が無律だとすれば、それは意識に対す
 る無意識(深層意識)、秩序(コスモス)に対する混沌(カオス)、
 概念(concept)に対する内念(endocept)が対応するであろう。
 『曼荼羅』本巻付録の河合隼雄氏との対談で「無律」の世界の奥深さ
 が示唆されている。別のところで「自由とは自律することだとわたし
 は考えています」と語っているところから、鶴見にとって自律がもっ
 とも重要であることは明らかである。真に自律的なるものは自己完結
 性を指向する生命それ自体である。自律する生命を見定めるところに
 内的発展論の第一の特徴がある。(P.15-16)

生命の三つの様態である、自律、他律、無律において、
「自由とは自律すること」であり、
自律の対概念は、他律ではなく、無律であるという。

他律は、そのことばのとおり、
自分で自分を律するのではなく、他が律すること。
そういう役割だからそうする、
そうするものだからそうする、
まるでロボットのように、
なにものかが自分を操縦しているという状態。

無律というのを、自分が律していないというふうには
とらえないほうが適切だろう。
むしろ、自分というものをもっと柔軟にとらえ、
もっと深いところで自分を根拠づけている自己によって
律しているというふうにとらえることができる。

自律と無律を対としてとらえるというのはとても大切なとらえ方で、
自律を自律たらしめるものとしての無律というふうにとらえるとすれば、
自由であるためには、無律との付き合い方というか、
無律がいかに働きかけるかについてある程度自覚的である必要がある。

その自覚の仕方について、
プロセス指向心理学のミンデルの
『シャーマンズ・ボディ』のなかで、
「本当の人間」と「幽霊」になってしまっている人間について
述べているところが示唆的である。

  私が定義する本当の人間とは、自分を動かしている精霊を自覚し、
 それが他者に与える影響に責任を持つ人のことである。
  自由な動きがとれないと感じるとき、あなたは一時的であるにせよ、
 ある役割の精霊にとり憑かれ、知らぬ間にそれを演じさせられている。
 こうした状況を抜け出すには、ヒーラーたちが先に示してくれたよう
 に、人々と精霊の間に割って入り、人々が自分に憑いている精霊を自
 覚的に表現していくよう促すことである。もし、同じ精霊あるいは同
 じ役割にいつも動かされているならば、あなたは自由でなくなる。そ
 のときあなたはチャンネルに過ぎず、精霊そのものではない。そのこ
 とを忘れてしまうと、あなたは本当の人間ではなく、幽霊になってし
 まうのだ。
 (・・・)
  幽霊は、戦士とは違いゴーストを無視するため。それに憑かれてし
 まっている。幽霊にとっては、すべてが恐ろしく真剣な問題となる。
 幽霊になってしまうと、世界の状態についていつも心配し、苦しみ、
 悩み、それを破壊しよう、あるいは救おうとする。
  幽霊にならずに本当の人間であるにはどうすればよいのだろうか?
 第6章で述べたように、狩人になるか戦士になるかということは、精
 霊の意志にかかっている。成長のすべての段階で、個人を成長させる
 のは未知なる力の働きである。あなたは幽霊のままかもしれない。あ
 るいは、あなたはあるとき一時的に狩人になるかもしれない。すると
 あなたは日常的リアリティにとどまりながら、獲物を追跡し、捕らえ、
 食し、そして統合するだろう。あるいは、あなたは戦士になるかもし
 れない。そのときあなたは未知なる世界の扉の前に立ち、その中へと
 踏み込んでいくだろう。
  しかしながら、心のある道を歩む人間は、そのすべてであり、また
 どれでもない。こうして何にも執着せず、柔軟にそしてすばやくさま
 ざまな状態を行き来するとき、あなたは本当の人間になる。ときにあ
 なたは普通の人間、ときに戦士、ときにナワールの師となるのだ。
 (アーノルド・ミンデルは『シャーマンズ・ボディ』
  コスモス・ライブラリー/P.247-248)

他律は人を幽霊にしてしまう。

幽霊というのは、自分を動かしている主体がほかのところにあり、
それについて自分が責任を負えない状態であるということができる。
だから、自分におこっていることを自分ではどうしようもない。
自分に外から何かが働きかけたとしても、
それはあくまでも外から自分に襲いかかったものであり、
自分が責任を負うとか
自分の主体的な何かに関係したことであるとかいうこととしては
まったくとらえることができない。
「世界」と自分とはどこまでも対立していると同時に、
自分は「世界」に動かされている存在でしかない。
ロボットであるがゆえに動かす主体は別にあり
自分は常に被害者であるか
苦しみの前でなすすべもなく立ちすくむしかできなくなる。

この世界劇場の舞台において行動する自分の主体を
自律、無律ということで柔軟にとらえてくことで、
他律的に演技させられているものとしてではなく、
意識的にせよ無意識的にせよ、
みずからが脚本を即興劇的書き、演じているものとしてとらえることができる。
従って、みずからの前に立ちあらわれる世界は、
自分に外から働きかけているものではなく、
自分がそこに深く関わっているものとしてとらえることができる。
まさに世界は「曼荼羅」で、
その中心にはみずからの自律と無律が縁起的に存在している。