風のトポスノート686

 

やっぱり正直者で行こう!


2009.1.19

 

ほぼ日で、
「山岸俊男先生のおもしろ社会心理学講義/やっぱり正直者で行こう!」
という対談(×糸井重里)が連載されていて、面白い。
http://www.1101.com/yamagishi_toshio/index.html

ぼくが山岸俊男という人のことを知ったのは
2000年の同じほぼ日の対談
「信頼の時代を語る。山岸俊男さんの研究を学ぼう。」で
http://www.1101.com/marugoto4/index.html
そのときに、『信頼の構造』という著書を読んで大変面白かった。

その後も、ほぼ日には何度か登場していて
今回は1年ほど前に出ていた
『日本の「安心」はなぜ消えたのか』(集英社インタナショナル)を受けて
行なわれた対談のようである。
内容は、ひどくあたりまえのような内容なのだけれど、
世の中の常識とはむしろ逆行しているところがあるのが大変面白い。

今回の対談のなかから少し。

◎第2回(2009-01-13-TUE)より

 糸井 ここ数年、「倫理」とか「モラル」で
    しばろうとする動きがあるじゃないですか。
 山岸 ええ。
 糸井 そういう風潮に対して、
   「オレ、言っとかないとなぁ」というのは‥‥。
 山岸 ありましたね。
 糸井 ありましたか。
 山岸 なんかね、キライなんです、そういうの。
     ‥‥まぁ、単にキライなだけだったら
    別に、なんにも言わないんでしょうけど。
 糸井 じゃあ、好き嫌い以上の問題であると。
 山岸 そういう思想で社会をつくっていけると
    みんな思っちゃったら、マズイんですよ。
 糸井 ほう。
 山岸 だって、倫理やモラルでしばりつけて
    うまくいった社会なんて、
    人類の歴史上、ひとつもないんですから。
 糸井 そうなんですよね。
 山岸 むしろ、そんなことしようとすると、
    たいがい失敗して
    タイヘンなことになっちゃうんです。
 (・・・)
 山岸 「統治者の倫理」を押しつけられたら、
    これはもう‥‥たまらない。
 糸井 のあたりの山岸先生の感性とかセンスが
   「倫理」や「モラル」に対して
   ちょっと違うだろうと言わせてるんですね。
 山岸 だって倫理やモラルを説教されるのなんて
    イヤじゃないですか。
 糸井 イヤです。
 (・・・)
 糸井 つまり‥‥どう言ったらいいんだろう、
    「国家の品格」だとか、
    「女性の品格」だとかいう言論に対して、
    「それはちがうよ!」って大きな声を出しても、
    逆効果にしかならない気がして。
  (・・・)
 山岸 全員、武士道に従え、
    品格を身につけろ‥‥というのはムリだし、
    何より強制するのは、間違ってます。

要は、外から「道徳」的に縛るようにするのはやはりまずいということ。
そもそも外から(上から)ああしろ、こうしろ、
品格を身につけろ、武士道にならえ、
とかいうのは、気持ち悪いし、実際のところ意味がない。
意味がないだけではなく、ろくなことにならない。

しかし、「自由」や「自律」のわからない人にとっては、
道徳や倫理というのは、それに従うようにしかイメージできないのだろう。
そういう人にとっては「他律」以外の価値が存在しないのだろうし、
外から縛らなければ大変なこと(無秩序)になってしまう、
というふうなひどく短絡的な発想になってしまっているように見える。
その上、自分は外から(上から)見て判断したり、指導したりする立場で
意識的か無意識的か別にしても、それ以外の発想ができなくなっている。
ほんとうは、ひどく稚拙な思考しかできていないにもかかわらず
自分は高みにいると思っているところがまた二重の意味で傲慢である。

さて、せっかくなので、山岸俊男『日本の「安心」はなぜ消えたのか』から
さわりの部分をご紹介しておきたいと思う。

  統治の倫理(武士道)と市場の倫理(商人道)の違いについて語ろうと
 思えば、いくらでも語ることができるのですが、その最大の違いはどこに
 あるのかといえば、統治の倫理が「権力者のモラル」であるのに対して、
 市場の倫理が物を作ったり売ったりする「大衆のモラル」の体系である点
 だと私は考えています。
  武士道に代表される統治の倫理とは、結局のところ、社会体制を維持す
 るために権力者が守るべき道徳律に他なりません。人々から権力者として
 畏敬・尊重されるためには、利益に惑わされず、公平無私の心を貫き、秩
 序や伝統を尊重する精神が必要とされます。そこで生まれてきたのが統治
 の原理であり、武士道であるというわけです。
  これに対して市場の倫理とは、権力に頼ることなく、おたがいに繁栄し
 ていくためにはどう行動していくのがいいのかと考えたときに生まれたモ
 ラルの体系であると言えるでしょう。共存共栄のためには、おたがいに嘘
 をつかず、信頼しあい、利益を分かち合う姿勢こそが必要であると説くの
 が商人道であり、市場の倫理であると言えます。
 (・・・)
  改めて言うまでもありませんが、商人の活動を悪と決めつける武士道=
 無私の倫理をいくら声高に叫んでも、今の世の中にそれが定着するわけも
 ありません。そもそも武士道とは統治者に求められるべきモラルなのです
 から、無私の精神を国民全体に広めること自体、無理な話です。
 (・・・)
  すでに社会的ジレンマのところでも述べたように、「〜するのが正しい」
 と教えるモラル教育には大きな欠点があります。つまり、モラル教育の成
 果をきちんと身につけた人たちが、そうでない人に利用され、「馬鹿を見る」
 状態が残っているかぎり、そうした教育はかえって「百害あって一利なし」
 にもなりかねないからです・
 (・・・)
  大事なのは、正直者であることが損にならない社会制度を作っていくこ
 とであって、そうした社会制度をきちんと整備することができれば、あと
 は「正直に行動し、他人を信頼することが結局は自分のためになるのだよ」
 という世の中の現実を教えさえすれば、商人道は自ずから普及していくの
 ではないでしょうか。
 (P.256-259)

ひとつには、視点の問題であり、
自分を高みにおいて、社会をオペレーションするような視点で
多くの人の行動を道徳的に規制するようなありようは
実際の所、人間理解として欠損しているということで、
あくまでも、関係性の一結節点としてみずからを
そしてすべての人を位置づけるような
いわばネットワーク的な視点が必要であるということであり、
もう一つは、そういう視点に立った
「正直者が馬鹿をみる」ことのないような社会制度をつくる必要性がある
ということなのだろうと思う。

実際のところ、現在はそれとは逆の視点と制度になっているわけで、
そうした転倒を転倒と思っていないところに
さまざまな問題点の根っこがあるんだろうということがわかる。
要は「自由」や「自律」ということを
ちゃんと考える必要があるということなのだろうと思うのだけれど、
そういうのが嫌いな人が多いのをどうすれば・・・ということになる。
やれやれ。