風のトポスノート685

 

山を何度も築きなおすこと


2009.1.14

 

  禅を学ぶ前は、山は山であった。禅を学んでいる間は、山はもはや山
 ではなかった。禅を学んだ後は、再び山は山であった。言い換えると、
 自覚の訓練を始める前は、人生はありきたりのものであるーー楽しかろ
 うと、トラブル続きであろうと。突然、あなたは夢に現われる人物や精
 霊、無意識や意識の諸側面、二次プロセスや一次プロセスに気づき始め
 る。すべてが隠れたメッセージや意味を含んでいるように思われる。
 (・・・)
  しかし、禅を学んだ後は、もはや隠れた意味などない。再び世界はそ
 れ自体となるのだ。(・・・)
  しかし、注意しなければならない。禅の教えは次のように続く。「そ
 して山は崩れ去り、再び築かなければならなかった」。老いという敵に
 やられないためには、訓練をもう一度始めなければならないのだ。
 (・・・)
  心のある道という観点から見れば、今この瞬間この場所こそが自己成
 長のためにあるということが分かる。世界は恐ろしく、畏怖の念を抱か
 せる。しかし、心ある道という観点から見れば、今起こっていることは
 何であれ、完全に、そして十全に活用されるべきなのだ。(深層の)ド
 リームタイムは「今この瞬間」を統治している。世界とは、日常的リア
 リティだけを意味するのではない。それは、誰もが自己の全体性を発見
 しようと苦闘する宇宙でもある。「今この瞬間」とは、偉大なる師、身
 体、人間関係、夢、周囲の世界を発見する場所である。クーガーや熊が
 徘徊する荒野、争いや麻薬に満ちた街角、日常生活における危険以外に、
 自分自身になるための場所はないのだ。
 (・・・)
  なぜ、偉大な師は、私たちの夢の中や、人里離れた場所にしかいない
 のだろうか? なぜ、彼らにとっての心ある道は、山の中やアシュラム
 で生きることなのだろうか? 彼らは日常生活に価値を見ていないのだ
 ろうか? 彼らの教えは、人間関係、日常生活、現代社会では役に立た
 ないのだろうか? おそらく私たち一人一人が、殴り合いや人種暴動の
 渦中にとどまり、ここが本当の狩り場だと宣言するような新しい師にな
 る必要があるのかもしれない。争いは良くない、人々は暴動を起こすべ
 きではない、そもそも街は良くないという師は、私たちと同じように、
 そうした世界に対してどのように取り組んだらいいのか分からないのか
 もしれない。
 (アーノルド・ミンデルは『シャーマンズ・ボディ』
  コスモス・ライブラリー/P.180-189)

それまで見ていた現実が現実ではなくなる。
禅でなくても、少なくとも、少しでも常識的な見方を疑い始めれば、
それまで「そういうものだ」と思っていたものは
もう「そういうもの」としてはあらわれなくなる。
世の中のあらゆる常識を疑ってかからざるをえなくなる。
そういうプロセスなしではなにもはじまらない。
そして、世の中の多くの人たちにとっては
そうしたいちばん最初のプロセスさえも自明のものではない。

しかし、それまで見ていた現実が崩れ始めると
それを押しとどめるすべはもはやなくなる。
そしてなにもわからなくなる状態が訪れる。
いわば、狂気になる。

もちろん、ひとにそれとわかるように狂気になる必要はない。
むしろ、その狂気を静かにかかえながら
日常生活を二重化した状態で送らなければならない。
ひとにそれとわかる狂気を生きるのは、ただの愚かさである。
そういう愚かさは、狂気ではなく、ただ自らを失ってしまっただけである。
それは悲しいことであるが、OSを失ってしまったコンピューターのようなもの。
課題は、OSを破綻させることなく、マルチで動かすことなのだ。
それまでのOSも機能させながら、別のOSを立ち上げ始めるということ。
かつてのOSにとって、新たなOSは狂気であり、
その狂気を隠れたところで起動させ、新たな機能を作動させなければならない。

そうして、新たなOSがなんとか立ち上がったところで、
山でなくなっていた山は、再び山となってあらわれてくる。
しかし、その新たなOSを立ち上げたことで
新たな可能性を生きる自分に立ち止まっていてはならない。
それは魔境である。
再び狂気へと向かわなければならない。
かつては「そういうものだ」と思っていた世界へと
みずからの足を向かわせなければならない。
そしてそのOSにとって、それそのものが狂気にほかならない。
むしろある意味で最大の恐れがそこにあるといえるかもしれない。
その恐れのうちにある者は、
「山の中やアシュラム」で過ごすことになるのだろう。
みずからは新たなOSを生きているのだと自分に言いきかせながら。

山は何度も築き治されなければならない。
もし常に新たなOSへのシフトすることを恐れないならば。
恐れを押し隠したまま「山の中やアシュラム」で過ごそうとするならば、
そのなかで、もっとも単純なところ、もっとも身近なところで、
みずからの影は笑いながら近づいてきてくれるはずである。
そして古き山にしがみつこうとするか、
そうでないならば狂気のうちに山を再び崩し始めなければならない。
子供が自分が積み上げた積み木を無造作に崩すように。