風のトポスノート684

 

さめても胸のさわぐなりけり


2009.1.14

 

 すべての夢は結局、覚めていないと見えない。覚醒しないと夢が見られ
 ないということ、ここが仏教なんです。
  西行に「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり」
 という、すごい歌がありますね。ようするに、またたきするよりも短い
 刹那のなかに永遠を感じるためには、覚醒していなければならないんで
 すよ。
  第一講で、私は「逆対応」という話をしました。西田幾多郎の「絶対
 矛盾的自己同一」の話もちょっとしました。それはその場の一瞬という
 ものに主客が転倒していって、主語であったものが述語になって、述語
 が主語になっていくということでした。その日本語の独特の感覚もふく
 めて、「浅き夢見じ酔ひもせず」というものをとらえなければならない
 だろうと、私は思っています。
  ふつう、覚めている状態というのはリアルということです。リアルと
 いうことはアクチュアルであって、生きていていろんなことをやってい
 る状態がふつうはアクチュアルです。しかしながら、この無常観の哲学
 のなかでは、あるいは仏教思想のなかでは、そこがひっくりかえってい
 くわけです。
  そこに、もともとウツロイという言葉の意味の正体があったというこ
 とです。そこには「ウツ」(空)という空の状態と「ウツツ」(現)と
 いう現実の状態の、両方がふくまれているわけです。これはとんでもな
 いことです。
  前回、「手前」という言葉が、自分をさす言葉にも相手をさす「てめ
 え」という言葉にもなるという日本語の不思議があるという話もしまし
 たが、何もないという意味の「ウツ」という言葉から、現実という意味
 の「ウツツ」という言葉が出てくるというのは、もっと劇的です。そう
 するとヴォイドなものがアクチュアルで、そのウツからウツツにおよぶ
 プロセスが「ウツロイ」だという独特の日本語の感覚になっていく。
  そのウツロイを、お茶やお花や、あるいは禅や能が、徹底して詰めて
 集約していったんでしょうね。毎日毎日お茶を入れる、毎日毎日摺り足
 をする、毎日毎日声を出す、そういうことを通して、日本人のウツロイ
 というものを今日まで伝えてくれたわけです。しかし、その起源のなか
 には、このとんでもない矛盾、すなわち「ウツ」が「ウツツ」であると
 いう逆対応がひそんでいるわけです。
  ということで「さめても胸のさわぐなりけり」という西行の歌は、覚
 めてからがほんとうの胸騒ぎになるということです。
 (松岡正剛『連塾/方法日本1』春秋社/P.335-337)

私たちが「現実」だと思っているものは、無常そのものである。
確かに「いま・ここ」に立っていると思っていても
それは常に「うつろい」のなかにあり、常なるものはなにもない。
諸行無常、それこそが「現実」にほかならない。

私たちは夢を見る。
胡蝶の夢ではないが、私が夢を見ているのか
胡蝶が私の夢を見ているのか、実際のところわからない。
少なくとも、私たちがふつう現実だと思っていることが
どこまで現実なのかもよくわからない。
時間も流れているのか刹那滅なのか
永遠を錯覚しているだけなのかよくわからない。

諸法は無我であり
自分が「我」だと思っているものも
夢のひとつの現われかもしれず
ユングが自伝で述べているように、
夢にでてきたヨガ行者の夢が目覚めれば
その夢を見ていると思っている自分は消えてしまうのかもしれない。
「彼が私について瞑想している人間だ。
彼は夢を見、私は彼の夢なのだ」と。

少なくとも、目覚めていると思っている意識そのものも
またひとつの夢であることを知らなければならない。
目覚めているということそのものを逆説的にとらえる視点、
自分は夢見られているのだという視点で自らを逆照射してみること。

実際、今こうして目覚めているように思っている意識は
いかに無意識のなかで浮遊していることだろう。
意識していると思っていることさえも
それそのものが深い睡りのなかにあることは
自分の意識を少しふりかえってみるだけですぐにわかる。
そして自分の無意識からやってくるさまざまな働きかけが
自分の外から襲ってくるのを自分だととらえることさえできないでいる。

現実(うつつ)は無常であって常にうつろいゆき、
空(うつ)から現われてくる。
「春風の花を散らすと見る夢」から
「さめても胸のさわぐ」というのは
目覚めていると思いながら
その実、「浅き夢」を見続けている自分のなかに働きかけている
空(うつ)からの強い呼び声のようなものなのかもしれない。

アーノルド・ミンデルは『シャーマンズ・ボディ』のなかで、
カスタネダの「世界を止めること」に関連して次のように述べている。

  ドンファンは分身を育てることを指して、「世界を止めること」すな
 わち「自分の持っているアイデンティティから抜け出すこと」という言
 い方をしている。彼は、「日常の自分は分身を夢に見る」と言う。あな
 たがいったん分身を夢見ることを学べば、反転が起こり、分身があなた
 を夢見ていることに気づくようになるだろう。あなたは夢そもののなの
 だ。自分が分身を夢みていると普段考えているのと同じように、あなた
 は分身によって夢見られている。
  通常あなたは日常の自己、すなわち一次プロセスに同化している。あ
 ならは自分の履歴やアイデンティティを重要だと考えている。しかし、
 二次プロセスを自覚するようになると、自分の日常のアイデンティティ
 を「止める」ことが可能になっていく。そのときには、ドリーミングボ
 ディがリアリティの基盤になり、ドリーミングボディそれ自体を実現さ
 せるために、あなたの日常の世界が夢みられているように思えていくだ
 ろう。
  あなたは、自分のドリーミングボディ、すなわち自分の分身が、日常
 生活、トラブル、身体症状などの体験を創りあげていることを知ってい
 るはずだ。あなたは退屈したときに、問題を夢みる。ドリーミングボデ
 ィには、あなたのアイデンティティを混乱させ、行き詰まらせる以外に、
 本当にあなたが何者であるか知らせる方法がない。(P.173-174)

私たちは、目覚めていると思っている日常生活のなかで、
さまざまに「さめても胸のさわぐ」ことを体験する。
それは私たちが自分だと思い込んでいるアイデンティティを
激しく揺り動かすことがある。
死に直面するときにも、みずからのアイデンティティは激しく揺らぐだろう。
自分が自分だと思っているその存在が亡くなろうとしているのだから。
肉体の死に至るまで、私たちはさまざまにアイデンティティの死を迎える。
もしその小さな死を迎えなければ、同じパターンで繰り返し繰り返し
私たちはそのアイデンティティの死からの働きかけを受け続けるだろう。
そしてまた一度小さな死を迎えることができたとしても、また新たな小さな死
が・・・。

私たちは、夢みられている。
その夢みられている自分の「世界を止めること」が
現実(うつつ)の根源としての空(うつ)の次元に目覚めることなのだろう。
一切は空である。
そして、空即是色、色即是空。