風のトポスノート683

 

最良の自己教育としてのプロセス・ワーク


2008.12.26

 

  攻撃にさらされているまっただ中でもバランスを保ち、その挑戦を
 楽しめるようになるところまで、どのようにしたら成長できるのでし
 ょうか? どうしたら執着を手離し、慈悲の心を培うことができるの
 でしょうか? すべてのことはーー死に対してさえもーーこうした態
 度が必要であると指摘しているように思われます。しかし、いったい
 どんな人であれば、そういった態度を長く持続できるのでしょうか?
 自らが模範となってそのような感情や技法を教える教師もいますが、
 多くのセラピストは、クライアントの最悪の問題と対処するプロセス
 を通じて、平常心、マインドフルネス、慈悲の心、深い悦びなどを伝
 えます。おそらく最良の教師は、自分は道を示すことができるだけだ、
 ということに自覚的である人でしょう。その道を実際に歩いていくの
 は、学ぶ側がやるべきことなのです。
  学ぶ側は、古今の神秘学、禅、仏教、老荘思想、シャーマニズム、
 武道などについて研究しなければならないでしょう。しかし、率直に
 言えば、人生における不可能と思われるような挑戦こそが、最良の教
 師であると私たちは考えています。
  執着を手放すことを学ぶには、あなたが日頃やっていることをしっ
 かりとやり抜かねばなりません! 闘いたいだけ、人生と闘うといい
 でしょう。人生をコントロールし、河の流れを変え、できるかぎり自
 己中心的、野心的、頑固でありなさい。運命と闘いなさい! どんな
 ことにも、気がすむまでしがみつきなさい! 少なくとも、運命が、
 もうたくさんだとあなたから逃げていくまでは。これがプロセス指向
 的な学びです。人生の各段階を、それが現れるままに受け入れ、それ
 を生き抜きなさい。すると、自分でも知らないうちに、いつのまにか
 ゴールにたどり着いているでしょう。
  自覚がなければ、おそらくこの「新しい」ワークを学ぶことは不可
 能でしょう。そうはいっても、自覚はほんの一瞬しか続きません。そ
 のようなときには、自覚をどのように忘れてしまったのか、どのよう
 にがんばろうとしていたのか、どのように出来事の理解に失敗したか、
 自分がどれほど賢い解釈者になりたいと思っているのか、世界を変え、
 世界を征服したいとどれほど強く思っているのか、ということに注意
 を向けるのです。すると、最終的にはーーいや、またもやと言ったほ
 うが適切かもしれませんがーー何もかもが失敗に終わったそのとき、
 人生そのものがプロセス指向の考え方を教えてくれていることに気づ
 くでしょう。結局のところ、とことん消耗しないことには、誰が自分
 を変える準備などできるでしょうか。崖っぷちに立たされてはじめて、
 われわれはーー誰でも、いつでもというわけではありませんがーー、
 心を開き、うしろ向きに馬に乗る心構えができるのです。
  束の間にせよ、そうした稀な一瞬が、たとえ嵐が続いていようとも、
 一種、畏怖するほどの平和が、人生の荒波の中から浮上してくること
 でしょう。
 (アーノルド&エイミー・ミンデル『うしろ向きに馬に乗る』春秋社/P.319-321)

ぼく自身、どこかで成長できないと思えてしまう理由があるとすれば、
それはいつも8割、いや6割主義で事に望む傾向があるからなのだろう。
つまり、プラスの点でいえば
その範囲ではある程度、自分のしていることを把握できるために、
物事をなんとかうまく進める効果もあるのかもしれないけれど
逆にいえば、全力で取り組むことを恐れているというか、
全力で取り組んでその結果こんてんぱんにされてしまうと
立ち直れないかもしれないという恐れが
そうさせてしまうところもあるように思う。

しかし、真に成長しようと思うならば、
6割、8割主義では自分が世界(だと思っている)の限界を
超えていくことはできないのだろう。
その世界の限界というのは、ひとりひとり異なっていて
他者と比較することはできない。
だれかがやすやすと超えていく地平があるとしても
ぼくはその地平を自分の地平にすることはできない。
だれかが驚くほど目の前で足を前に出せないでいるとしても
そのことをどうして歩けないのだということもできない。

むずかしいのは、ひとと比較するのではなく、
今の自分のもっている世界において、
全力で取り組むということ。
しかし、その、自分が全力で取り組んでいると言うことそのものに
注意を向けておく必要がある。
わけのわからないバンザイ攻撃であってはならない。
たとえそのとき、あられもない大声をあげているとしても
そのことそのものに自分の注意を向ける必要がある。
サディスティックになにかに攻撃的になっているときも
マゾヒスティックになにかに耐えようとするときにも、
そのサディスティックである意識や行動に、
マゾヒスティックである意識や行動に、
注意を向けている必要がある。

よく順境のときにはよくよく自らを省み、
逆境とときにはそれにつぶされないように力の限り進む、
とかいうようなことがいわれるが、
どちらにしてもよく進むことができるためには、
自分がその主人になるということと
その行なっていることそのものを見る者になることを
同時に行なう必要がある。

そうしたことをだれも自分に代わってしてくれることはありえない。
自分は見ているだけということはなく、
見ていなければならないことはたしかだとしても、
それをそうしているのは、自分自身なのだ。
自己教育という、
自分が教える者であり
また同時に教わる者でもあるということはそういうことだ。
教わり続けるだけの者は何も学ぶことはできないだろうし、
教え続けるだけの者はすぐに枯渇してしまい道を誤ってしまうだろう。

そして、そのように、「プロセス」を「ワーク」するということは、
まさに最良の自己教育であるということもできるだろう。