風のトポスノート681

 

アートとしてのワーク


2008.12.20

 

  シグナルやメッセージと取り組む場合、私たちは現象学的にワークを行な
 うことになります。従って、身体の化学的側面に焦点を合わせることはあり
 ません。それでも変化は起こるのです。それは神秘学の教えのようです。身
 体を経験して、知覚して、それをワークすれば、世界は変化するのです。あ
 るいはこれはアートなのかもしれません。夢のイメージと重なる未完了の動
 作は、ダンスや創造性の始まりなのかもしれません。私はそう思っています。
 これは、単に物理学、化学、心理学もしくは癒しであるだけではなく、アー
 トなのです。今では、他のどんな説明よりも「アート」という概念のほうが、
 私のやっていることにしっくりきます。
  癒しというのは実際、非常に限界のある考え方です。この考え方は原因と
 結果だけを取り扱っていきます。そこにはほとんどアートが存在する余地が
 ありません。それは、ダンスや動作、イメージ、もしくは身体症状の背後に
 ある創造の力に焦点を合わせることはありません。
  誰もが身体症状を恐れ、それを治したいと思っています。人は治療のため
 に、ありとあらゆるヒーラーのもとを訪れます。しかし、最悪の問題は、病
 気になることではありません。私たちは、自分が体験していることを生きた
 り愛したりするかわりに、それは悪であり、抑圧され、癒されるべきものと
 信じてしまっているようです。まるで、文化に催眠をかけられているようで
 す。
 (アーノルド&エイミー・ミンデル『うしろ向きに馬に乗る』春秋社/P.35)

痛みがあるとき、ひとはその痛みを取り除きたいと思う。
苦しいとき、ひとはその苦しさから逃れたいと思う。

けれど、痛みがなければそれでいいか。
苦しさから逃れられたらそれでいいのか。
そういう視点をもってみるとどうだろう。

四苦八苦という仏教的な苦の分析がある。
生きる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみ。
それから、 愛するも人分かれなければならない苦しみ、
憎んでいる人に会わなければならない苦しみ、
欲しいものを得られない苦しみ、
そして、いわゆる煩悩の苦しみ。

そういう苦しみから逃げ出すことがもしできたとして、
それは生きているということができるだろうか。
四苦八苦は生きることとともにあり、
たとえなんらかの薬や治療でそれらから逃げ出せたとしても、
そのことで、生きることが深まったりはしない。
ましてや死を深めたりすことができるはずもない。

四苦八苦と向き合うことなくしては
それらがほんらいもっているものを力を引き出すことはできないように思う。
執着を去るというのもコトバの矛盾で、
執着を見る、執着に意識的になり、それと向かい合うことでしか、
その執着を別のものに変容させることはできないだろうと思うのだ。

仏陀は愛を執着として位置づけたが、
だからといってその愛から遠ざかってしまったとしたら
どこまでいっても愛のことはわからないだろう。
愛は生きてみることでしか体験できないし
その種を成長させていくことはできない。

その意味で、苦は愛の種であり、
それを創造的に体験し変容させていくことは
まさに「アート」というのがふさわしいのだろう。
それをポエジーといってもいい。

苦しいときには、その苦しみとともにあり、
その苦しみなくしては開かれてこない世界に向かい、
今いる世界の境を超えようとすること。
苦しみは峠であり、峠は越えない限り、
いつまでもこれまでの世界にいるしかない。
愛さないかぎり、愛による変容は体験できない。
死のときも、死から逃げようとするのではなく、
その境を超えるべく生きることなくしては
死をアートとすることはできないのだろう。

その意味で、自分が超えなければならない
なんらかの境を峠を見つける旅に、
それを超えようとする旅にでる必要がある。
今、ここで、だれにでもできる、
しかしおそらくもっともむずかしい課題がここにある。
だから、必要なのが「アート」なのだろう。
苦行ではなくアート。
眠くても目を覚ましていること。
目をあけて見つめることでそのものを変容させること。
そしてそのことで自分そのものが変容すること。