風のトポスノート680

 

うしろ向きに馬に乗る


2008.12.20

 

  バカげたこと、とんでもないことに配慮するのは、誰もが世界は平らだと
 思っているときに、一人だけ世界は丸いと信じるようなものです。(…)
  もちろん、少しでも「とんでもないこと」へと思いきって進んだことのあ
 る人は、世界が本当は丸く、この丸さが重大な発見であることを知っていま
 す。人生はどこまでも巡るのです!死を迎えたときでさえ、あなたはあなた
 自身が先へと進んでいることを感じることでしょう。世界の果てを越えると、
 物事は変容し、新しい世界が開けるのです。
  このように、プロセス指向のアプローチでは、日常的な意識の様式を裏返
 さなければなりません。もしくは、メタファーを用いるならば、あなたは
 「うしろ向きに馬に乗る」必要があるのです。アメリカ先住民のある部族に
 は、少し変わっていて愉快なトリックスターがいます。そのトリックスター
 は、すべてを逆転させて行なう「あまのじゃく」であるかぎり、その部族に
 いることが許されるのです。彼の乗る馬は前に進みますが、しかし彼はうし
 ろを向いて座っているのです。
  うしろ向きに馬に乗ることは、人生に対して「この病いはとんでもない」
 と言いながらも、それと同時に、「でも、これはなんて興味深いのだろう」
 と言うことを意味しています。あなたはうしろを向いて前に進むのです。
 普通、死は恐ろしいと思われていますが、うしろ向きという異端の考え方で
 は、死が何かを教えてくれると捉えることもできます。そのほうがもっとエ
 キサイティングではないでしょうか!苦しみに対して「嫌だ」と言って何を
 試しても効果がないときには、苦しみに「なるほど」と言ってみてください。
 そうすると、トラブルが何か面白いものに変化して、喜びにあふれ、笑いを
 こらえきれなくなるかもしれません。(…)プロセス・ワークのパラダイム
 は、世界に対して今起こりつつある出来事の可能性を見抜き、何かが展開し
 ようとしている種子として世界をとらえ、試しに「イエス」と言ってみるの
 です。
 (アーノルド&エイミー・ミンデル『うしろ向きに馬に乗る』春秋社/P.14-15)

なんにでも「あまのじゃく」というのがいいとは思わないけれど、
いわゆる常識や固定的な世界観をそのまま受け取らないで、
それを鵜呑みにするということはちゃんと見てないということなので、
そうじゃないんじゃないか、というふうに、
別の目線を向けてみることはとても大切なことじゃないかと思う。

だから、素直じゃないとか、おかしいんじゃないかと思われても、
あえて「あまのじゃく」をしてみるほうが、魅力的だと思う。

「世界」というのは、だれにでも客観的に
目の前に現われているように思われているところがあるけれど、
実際のところ、そうじゃない。

たしか中学生のころだったと思うけど、
兄と言い争いをしたことがあって、
兄はいわゆる素朴実在論的な素直な人なので
目の前にあるコップはコップ以外のなにものでもない
という見方を決して崩さなかったので、
ぼくはそれはおかしいと思って、
でも、コップをコップとしてみなかったり、
目線を違えてみたりするとぜんぜんちがって見えるかもしれないし、
人によってまったく違った現われ方をするかもしれない・・・云々
と言ったのだけれど、兄はそれに対して
それは「見方」であって、
このコップそのものはまったく変わらない、と言ってきかなかった。

その後も、兄はいろいろ苦労はあったと思うけれど、
きわめてまっとうにマジメにまっすぐに生きているのに対して、
ぼくはその後も「そうじゃないんじゃないか」を続けてしまって、
臆病なものだから、それなりに穏便に生きようとはしているけれど、
世の中の常識的な方向性とはかなり別な方向を向いて生きているように思う。

まあ、人があるものに対して見る見方がどんなであったとしても
仕事で利害が発生する場合は、あほらしいから迎合するけれど、
そうでない個人的なところでは、人がどう見るかはほとんど気にならない。
人がどう見るかということについては、理解したいとはおもうけれど、
だからといって、自分がその通り見る必要はないし、
実際のところ、そう見えないものを見えるとはいえないわけである。
で、ときには、あまのじゃくが頭をもたげてきて
あえて「そうじゃないんじゃないか」と意固地になることもある。
そのことで、「お兄ちゃんのように素直になりなさい。見習いなさい」と
小さい頃なんど言われたことか。

とはいえ、ぼくは
道化とかトリックスターのような役割を
そのまま引き受けることのできるほどのタイプではないので、
わりとぐちぐちと、しかし頑固なまでのマイペースで
「うしろ向きに馬に乗る」的なスタンスで生きているし、
そう生きないとしたら、たぶん今のように日々、
面白く生きることはできないだろうと思う。

上記引用で
「世界の果てを越えると、
 物事は変容し、新しい世界が開ける」とあるが、
まさに、ぼくは「世界の果て」、
つまり常識のラインを超えたところにあるところに目線を向け、
そこで常識と見えるものがまさに変容しているのを目にするのが好きなのだ。
たとえ、同じ見ているものに対して
ぼく以外の人が「なんだ、コップじゃないか」と断言しても
ぼくは、そうでなくてもいいし、じっさいにこう見えるんだ、と。