風のトポスノート679

 

病気の気持ちになってその言い分をきくこと


2008.12.18

 

  ガンや胃潰瘍などの重い病、肩こりや偏頭痛といった慢性の身体症状は、
 人生最大の<悩みの種>のひとつである。病気や身体症状は、私たちの人生
 から退治してしまいたい<人生の邪魔者>にちがいない。
  しかし考えてみれば、こうした症状や痛みも、先程の動作や夜見る夢と同
 じように<ひとりでに、勝手に生じてくるもの>にほかならない。
  そして、それが<ひとりでに、勝手に生じてくるもの>である限り、そこ
 には、無視することのできない大切な意味があり、それは人生のプロセスの
 中で生じてきた意味ある現象である、とプロセス指向心理学では考える。そ
 のため、身体症状や痛みも、夢や、ついついやってしまう癖などの<ひとり
 でに、勝手に生じている動作>と同じように、大切に大切に扱っていこうと
 するのである。
  つまり、病気や症状は、私たちに何か重要な人生のメッセージを伝えてく
 れているのだから、それを大切に扱うべきだ、<病気の気持ち><症状の気
 持ち>になって、その<言い分>に耳を傾けよう、その<言い分>に従って
 いこう、とするのである。プロセス指向心理学の考えでは、病気や症状は、
 そうにでもならなくては気づけずにいた<大切な何か>に気づくよう私たち
 を促してくれる、有り難い<贈り物>なのである。
  こんなふうに言うと、初めてプロセス指向心理学に接する方の大半は、ち
 ょっとついていけない顔をしはじめる。「病気はやっぱり、なくなってほし
 い」「病気の言い分に従えなんて、そんな無理なこと言われても」というわ
 けである。
  これほどに、症状や痛みはやっかい者されているわけであるが、これは見
 方を変えれば、それほどまでにやっかいなものだからこそ、症状や痛みには、
 とてつもなく重要な意味が秘められていることが多い、ということになる。
  プロセス指向心理学の出発点は、夢と病や症状の間のシンクロニシティ、
 つまり、夢や症状を映す鏡であり、またその逆も真なりで、病や症状も夢を
 映す鏡である、という関係に着眼したことにある。プロセス指向心理学の着
 眼するさまざまな現象の中でも、身体症状と夢こそ、人生の重要な気づきを
 得るために最も大切なものなのである。
 (藤見幸雄・諸富祥彦編著『プロセス指向心理学入門』春秋社/P.76-77)

ユング心理学から出て展開を見せている
「プロセス指向心理学入門」についてあらためて注目している。

アーノルド・ミンデル『紛争の心理学』、藤見幸雄『痛みと身体の心理学』については
ずいぶん前にご紹介したことがあるのだけれど、
ユングに関してまとまって見ていった後に、
あらためてふれる「プロセス指向心理学入門」は、
それが、心身の二元的な見方を超えるものであり、
(メタファーとしての身体ではなく、ドリームボディとしての身体)
またそれが人間関係や集団、組織等をも射程に置いていることが
今のぼくにはとても新鮮に映っている。
それに、ミンデルの『昏睡状態の人と対話する』という著書でも紹介されている
「コーマワーク」なども、大変に刺激的でかつ説得力のあるものだった。

さて、「プロセス指向心理学入門」は、「プロセス」とあるように、
「プロセス」そのものに注目する心理療法であある。
諸富祥彦は、その「プロセス指向」を次のようにとらえている。

  現象学的な態度で、出てきたプロセスをそのまま大切にする。偏見や固定
 観念から離れて、視覚(イメージ)、聴覚(言語)、身体感覚、動作、人間
 関係、世界との関わりなどのあらゆる角度から、そこで起きていること、起
 きつつあることを捉え、あらゆる媒体に開かれ、使えるものは何でも使う。
 心理療法やカウンセリングで従来から指摘されてきたこうした原則をそのま
 ま愚直に貫いていけば、心理療法はここにーープロセス指向心理学にーー行
 き着かざるをえないのだ、と。

上記引用にある「身体症状」や「痛み」についても
まさのその「出てきたプロセス」をとらえていく。
それを治そうとか抑えようとかいうのではなく、
そのプロセスそのものに寄り添っていき
その「気持ち」になって、「言い分」をきく。
「身体症状」や「痛み」というのは、「夢を映す鏡」であるのならば、
その「夢」そのものへと向かうことで、
秘められた大切な意味に気づくことができる。
それは、個人の「身体症状」や「痛み」だけではなく、
人間関係や集団においても同様で、
そういう現象そのものをとらえていく。

たしかに、痛みを感じているときに、
その「出てきたプロセス」をとらえていくというのは
ちょっとつらいところがある。
人間関係の苦しさというのも同様で、
苦しいから苦しいのであって、
その「出てきたプロセス」をとらえようとすると
そのことそのものが痛みを生じさえてしまいかねない。

しかし、その痛みの気持ちになってみれば、
それが出てくるプロセスのもとにあるものに敏感になって
その声をきこうとすることで
とらえることのできる、変容することのできるなにかがある。
すべての現象は、単なる偶然で起こりまったく無意味であるとか、
また何かが起こったときにそれに対して被害者となるとかいう世界観では、
実際どこにも行けなくなるのは確かで、
逆に、すべての現象には意味があるととらえ、
被害者ー加害者という一方通行的な見方を保留して
そこに起こっていることに耳を傾けてみることで
開かれてくる地平というのはとても豊かな世界観ではないだろうか。