風のトポスノート678

 

矛盾の統合としての美的経験


2008.12.7

 

 ーーひとつ引用しておきたい文章があるーー
 「実際に音楽には、とりわけルネサンス以来、あいまいさが
 ないわけではない。なぜなら音楽とは、秩序と超感覚的な尺
 度への知的な愛であり、同時にまた身体的振動から由来する
 感覚的な快楽でもあるのだから。さらにいえば、それはその
 あらゆる線をたえず外延として展開する水平方向のメロディ
 であり、内的精神的な統一性あるいは頂点を構成する垂直方
 向の和声でもある。そしてどこで一方が終わり、他方が始ま
 るのかよくわからないのだ。しかしまさにバロック音楽の特
 徴とは、メロディから和声を取り出すこと、また常に上位の
 統一性を再建し、それに諸芸術が、メロディの線に等しいも
 のとしてかかわるようにすることなのだ。このような和声の
 高揚こそが、バロックとよばれる音楽のもっとも一般的な定
 義を構成するのだ。」
 ーーこれは?
 ーージル・ドゥルーズがライプニッツを中心にしながらバロ
 ックを論じた『襞』の一説。けっしてわかりやすくはない。
 でも、バロックにおける「力」のありいよう、音楽における
 「メロディ/通奏低音」の力学がみごとに描き出されている。
 そして、こうした「メロディ/通奏低音」と「カノン」が交
 錯するところに、バッハを浮かび上がらせてみたいな。
 (小沼純一『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』
  みすず書房/理想の教室 2006.2.22発行/P.102)

yuccaの弾くバッハ『平均律』を聴きながら、
幾度聴いてもバッハの音楽に飽きてしまうことがないことを
あらためてのように思った。

聴くほどにその世界の美しさのなかで踊り続けながら
複雑で幾何学的な建築物の不思議のなかを
いつまでも巡っていたいような、
そんな気持ちになる音楽。

しかし、演奏するのはひどくむずかしいようである。
自分で演奏することのないぼくには想像の域を出ないが、
yuccaによれば4声とかになるとほんとうに大変だそうだ。
それぞれの声部はそれぞれに流れていても、
同時に鳴る4つの音はひどく矛盾した音でしかなかったりする。
しかしだからこそ、その矛盾を超えたところで
音楽が奏でられているというところにこそ
バッハの音楽の秘密のひとつがあるのかもしれない。
そしてたとえシンプルに響いてくる音であったとしても、
そこには無限の矛盾の統合があるものとして響いてくる。

ぼくにとって、飽きやすい音楽と
いつまでも飽きることのない音楽との違いは、
その矛盾の統合の度合いの違いなのかもしれないと思った。
同じバロックでもヘンデルの音楽というのは、
最初は酔ってしまうほどに美しい音楽が
何度か聴くうちにまさに二日酔いのように感じられてくる。
繰り返し聴くうちに飽きてしまう音楽は
そんな二日酔い状態のようにさせられてしまう。
それに対して、バッハの音楽の多くは、
そういう二日酔い状態とは無縁である。
何度聴いてもぼくの耳のなかで起こる矛盾の統合は
まるでいつもはじめて生じるような動きとして感じられることが多い。

リルケの「薔薇 おお 純粋な矛盾」という有名な詩を思い出した。

  薔薇 おお 純粋な矛盾
  このようにおびただしい瞼の奥で
  なにびとの眠りでもないという
  (富士川英郎訳)

そういえば、こうして生きていることは
ひどく矛盾に満ちている。
世界は4声どころか、人間だけで数十億声であり、
そのほかの諸存在を加えれば、ほとんど無限声である。
それぞれはそれぞれのメロディを奏でているのだけれど
それらは同時にひどく異質な声をあげている。
それにもかかわらず世界は世界として現象しつづけている。

そんななかで、わたしたちは、
少しの矛盾のなかでさえひどくうろたえて、
その音楽を聴き取ることができないでいる。
私という一個の存在のなかにさえ
無数の矛盾を抱え込んでいる。
しかしその矛盾こそが可能性なのかもしれない。
薔薇に純粋な矛盾を感じること。
そしてそのことに深遠な美を感受できること。
おそらく矛盾のないところに
そして矛盾をある感受において統合できないところに
美は現出しないのかもしれない。

無限の矛盾のなかで
外に向かっても
内に向かっても
数限りない矛盾のなかで
私という存在をどのように浮かび上がらせるか。

バッハを聴きながら
ときにそんなことをふと考えてしまうことがある。
バッハの音楽の魅力のひとつである。