風のトポスノート677

 

おまえ


2008.12.6

 

 朝日新聞の会員サービス、アスパラクラブが「おまえ」という
 呼び方への反応を約2万人に聞いた。配偶者や恋人にそう呼ば
 れたら「腹立たしい」「なんとなく不快」との回答が、男女と
 も8割あった。「新婚当初、それでよくけんかした」女性もい
 る。職場でも、女性のほぼ9割、男性の7割が不快に感じてい
 た。(…)ここまでの不人気、ほかならぬ「御前」が首をひね
 るに違いない。もとは目上に使う呼称で、おんまえ、ごぜん、
 と読めば察しがつく。それが江戸期から同等や目下にも使われ
 るようになり、戦後は「おれ」と対をなす、男臭くて荒っぽい
 語感を帯びた。相手が男でも女でも、信頼関係に余程の自信が
 なければ控えるのが賢明だ。
 当方、家族を「おまえ」と呼んだこと数知れない。それでモメ
 た覚えもないのだが、先の調査結果を知って不安がよぎった。
 もしや先方が堪え忍んできたのではないか。聞いたら、その通
 りだった。
 (朝日新聞・天声人語 2008.12.6.)

「おまえ」といわれる不快について調査した、
というように、なんでも統計調査的にしないと
そのことがわからないというのは象徴的ではあるけれど、
そういうことに気づいていないということに
ひどい病を感じてしまう。

ある程度、意識的に生きていることさえできれば、
「おまえ」と一方的にいわれることが
どういう状態を意味するのかくらいはわかりそうなものだ。
もちろん、友人同士で
互いに「おまえ」と言い合うのであれば、
それはそれで親しみを表現することばなのだろうが、
それが一方的に固定化した関係を前提にして使われるとしたら
それが相手に与える心象はおのずと知れる。

ぼくは小さい頃からその「おまえ」というのが嫌いで
覚えているかぎりでそのことばを一方的に使ったことはない。
調査などしなくても、気づいているひとはそんなには少なくないだろう。
まわりをみていると、職場では、
上から下にその言葉は、名前と並列してよく使われる。
田中さんに対してであれば「田中、おまえは・・・」という感じ。
結婚している奥さんに使っている人もかなり多いようである。
会社できいてみたこともあるけれど、
そのことに対してはほとんど無意識であって
あたりまえのように思っているようである。
もちろん、とくに違和感ない人はそれはそれで平和なのだろうけれど。

ぼくとしてはちょっと信じられない感じもするのだけれど、
ひとつの理由としては、
「おまえ」というのを、距離をあまりとらない
気の置けない関係の表現として使っていることはいえるだろうけれど、
同時にそこにかなり無意識に働いているのは、
上ー下の関係でしか人の関係を理解できないという
悲しい思いこみであるということがある程度はいえるだろう。
それと同時に、ある種の慣習に対して、
なぜ自分がそれを採用しているのかに対して無自覚であること。
だれかがそういう表現をとっているのをみて、
それに対する疑いを持たずに自分でもそれを模倣してしまう。
その意味でいえば、その模倣を継続的に行ってしまうというのは
子供のある種の段階を脱することができていないということでもある。
人は、なんにせよ、惰性を好むというわけである。

ともあれ、上記の天声人語を書いた人物。
きわめて朝日新聞的なイメージがある。
よく、社会に対しては不正を糾弾し正義と公正を叫びながら
家に帰っては「おまえ」と言う・・・というイメージ。
これはもちろんぼくのかなりの偏見も混じってはいるが、
ともあれ、「調査」をして、それではじめて驚き気づき、
自分が何をしてきていたのかを知るというのは
少なくともある種の良心の表現であるだろう。
自分が無自覚であったことを恥じそれを表明する潔さはもっている。

問題は、この方が、そのことに気づいたあと、
相手に対してどういう呼びかけをするかである。
「おまえ」と変わらずに呼びかけるわけにもいかないだろう。
それまで使ったことのないような呼びかけを
気恥ずかしくともするしかないのかもしれないが、
そういう意識なくしてはなにもはじまらないというのは確かだと思う。
現代の人間の最重要課題は「意識化」だともいえるからである。