風のトポスノート675

 

失われるものと成熟


2008.12.5

 

村上春樹の『ポートレート・イン・ジャズ』の最初は
チェット・ベイカーである。

  ベイカーの作り出す音楽には、この人の音色とフレーズでなくては伝
  えることのできない胸の疼きがあり、心象風景があった。彼はそれを
  ごく自然に空気として吸い込み、息吹として外に吐き出していくこと
  ができた。そこには人為的に工まれたものはほとんどなかった。あえ
  て工むまでもなく、彼自身がそのまま「何か特別なもの」だったのだ。
  しかし彼が「特別なもの」を維持できた期間は、決して長いものでは
  なかった。輝きは夏の盛りの美しい夕暮れのように、いつしか闇に飲
  み込まれていった。そして麻薬乱用のもたらす避けがたい低落が、期
  限のすぎた借金のようにのしかかってきた。
  ベイカーはジェームス・ディーンに似ている。顔だちも似ているが、
  その存在のカリスマ性や破滅性もよく似ていた。彼らは時代の一片を
  貪り食べ、得た滋養を世界に向かって気前よく、ほとんどひとつ残ら
  ずばらまいた。しかしディーンとは違って、ベイカーはその時代を生
  きのびた。ひどい言い方かもしれないが、それがチェット・ベイカー
  の悲劇でもあった。

チェット・ベイカーのボーカル・アルバム、
50年代の「Sings」と
80年代、亡くなる2年ほど前の「Love Song」を
くらべて聴いてみた。
どちらもほんとうに染みいるように聴きほれてしまうのだけれど、
50年代の名盤が「何か特別なもの」であるのに対して、
80年代の声はどの「特別なもの」が失われている。
もちろんチェット・ベイカーはトランペッターだが、
その演奏もまた同様である。

いったい何が失われてしまったというのだろう。
そして失ったかわりに得たものは何なのだろうか。
チェット・ベイカーは、破滅の後、長い期間を経て復活し、
そして58歳で不可解な死に方をしたとはいえ
それなりに長く活動できたことが
なおのことその「失われたもの」を浮き上がらせてしまう。

失われたものはいつも美しい。
そしてもちろん、失われることを代償にして
得られるもののなかには、美しさを超えたものが見られることがある。
それをある種、「成熟」ということもできるかもしれない。
しかし、「成熟」のないものは痛々しい。

80年代のチェット・ベイカーのアルバムに
成熟がないというのではもちろんないだろう。
実際、「Love Song」だけを聴くと
その憂愁から立ち上がってくるものに包まれて
ひととき時を忘れてしまう。
しかし、「Sings」をくらべて聴くとき
その憂愁はある種の痛々しさとなって響いてくる。
とはいえ、「Sings」に深みや成熟があるとはいえないだろう。
そこにあるのは、まさに
「夏の盛りの美しい夕暮れのよう」のようなものなのだ。
そしてそれがたとえようもないように美しく、
その軽さ、薄ささえもが「特別なもの」にきこえる。

成熟するものだけが美しさを超えていけることがある。
しかし成熟しないものの美しさに目をむけたときに
見えてくるものもあるのかもしれない。
スポーツの多くはその美しさこそがいのちになる。
かつてぼくはその美しさは虚偽ではないかと思っていた。
若くして引退するそのひとときの高みに向かう美しさ。
けれどそれは永遠からみればどうなのだろう。
それを思ったとき、その美しさが失われたあとも
その人のなかにのこるなにか「特別なもの」があることに気づいた。
そして80年代のチェット・ベイカーの声のように、
たとえそれがすでに悲劇であるとしても、
そしてそれが「成熟」とは無縁であるとしても、
それはまた美しさを超えた何かなのかもしれないのだ。