あいさつの言葉の中には、それがどうしてあいさつになるのか。 
            理由の理解できないものがある。(・・・) 
            ある理由から、あるきっかけで、あるいはいつの間にか、そう 
            いう意味というよりも、そういう用法に固定したのが、あいさ 
            つのことばである。(・・・) 
            だが、そういうことを承知の上で、なおかつ気にかかることが 
            ある。それは、あいさつの言葉には、命令の形が意外に多いと 
            いうことである。あいさつの言葉をどう定義し、その範囲をど 
            こまでにするかにもよるが、「御免ください」「御免なさい」 
            「お帰りなさい」「お休みなさい」「いらっしゃい」などは、 
            いずれも命令の形である。 
            あいさつの言葉というのは、必ず聞き手(相手)を前にして発 
            せられるものであり、命令もまず必ず聞き手に対してなされる 
            ものである。したがって、命令の表現があいさつの言葉になっ 
            ても不思議はないのだが、命令の表現がこれほど多いというの 
            はどういうことだろう。 
            (北原保雄『達人の日本語』文春文庫/P.9-10) 
        「御免ください」 
          「御免なさい」 
          (「許せ」) 
          (「ご自愛ください」) 
          「お帰りなさい」 
          (「行ってらっしゃい)」 
          「お休みなさい」 
          「いらっしゃい」 
        ほんとうに、 
          あいさつがなぜ「命令形」なのだろう。 
          日本語の謎である。 
        しかし、 
          「命令形」という位置づけそのものが 
          「あいさつ」がなぜ「命令形」なのか 
          という疑問を生じさせるのかもしれないとも思うし、 
          日本語は、 
          「われ」が自分だったり相手だったり、 
          「手前」が自分だったり相手(てめえ)だったり 
          「自分」がまさに自分だったり相手だったりもするわけで、 
          ひょっとしたら、 
          そこらへんの主体の転換を 
          こともなげに同じ言葉で表現するというあたりに 
          あいさつが命令形になっている謎があるのかもしれないという気もする。 
        「いらっしゃい(ませ)」というのは 
          「来い」ということだけれど 
          なぜ「来い」という命令が 
          「ようこそ」という意味合いになるのかといえば、 
          主体の「来てほしい」という願望を相手に伝えることが、 
          「来てほしい」→「来てください」→「いらっしゃい」 
          というふうに、主体の願望そのものが命令になって 
          それが自他を乗り越えて相手にぶつけることが礼になるような、 
          そんなことになったのではないか。 
          というふうに推測してみている。 
        ふつう考えれば、相手に命令することが 
          相手へのあいさつになるというのは不自然だけれど、 
          「自分」が「相手」にもなるような日本語なので、 
          だれがだれに、というあたりはやすやすと乗り越えるのではないかと思う。 
        さらに考えると、敬語や謙譲やていねい語などの表現が 
          かなり複雑になっているというのも 
          そうした主体の転換というのと 
          おそらくはリンクしているのではないだろうか。 
          つまり、上下の関係の機微をさまざまに表現できるほどに 
          主体の転換を日本語は自在に操っているということである。 
          主体が自在ということの果てに、というかその元なのかもしれないけれど、 
          わたしがあなたでもあるような、西洋的な自我からみれば 
          不可思議そのものでもあるようなことが可能になってくるわけである。 
      ・・・というふうに妄想してみたけれど、実のところどうなのだろう。  |