風のトポスノート672

 

既成の物語の定番のアイテムが使えないとき


2008.10.27

 

  村上 これまでの既成の物語の、定番のアイテムみたいなものを
  使っていては絶対いけない。それでは同じ風景を描くことになっ
  てしまう。
  (村上春樹×柴田元幸:村上春樹に会いに行く 2003年7月11日
   『ナイン・インタビューズ/柴田元幸と9人の作家たち』
   アルク/2004.3.30発行)

自分はどんな物語をもっているのだろうかと考えてみる。
そしてどんな物語を歩いているのかを考えてみる。
自分が歩きたいと思っている物語と実際に歩いている物語の差についても。

おそらくそれは自分の世界観であり
その世界観のなかでの自分の位置づけを示している。

しかし世の中には、自分の物語ではとらえられない物語があり、
どうしてもそこには位置づけることのできない物語がある。

もし、今の自分の物語では
世界がうまくとらえることができないとしたら、
そのときには、今自分が使っている物語の「定番のアイテム」を使わないで
別の物語のなかに入っていかなければならない。

世の中が大きく変化しているときには、
否応なく自分の物語が通用しなくなるときがあって
そのときには自分の無意識のほうから別の物語が噴出してくるときがある。
要は、そのときどうするか、である。

自分の物語世界のなかでずっと居心地よくすごせるのであれば、
あえてそれを壊す必要はないだろうが、
否応なく壊さざるを得ないときには、
別の物語のほうにシフトしていくことが必要になる。
そしてそのときに棄てなければならない「定番のアイテム」があって、
そのことにそれなりの苦しみを味わうことになるかもしれない。

そのとき必要なのは、
たとえばヤドカリが自分の寄生していた貝殻を
よいっしょっ、とばかりに変更することなのかもしれないけれど、
それはものすごく危険なことになるのかもしれない。
まず適当な貝殻がどうしても見つからないまま閉塞してしまう。
またはうまく新しい貝殻に移れないで、以前の貝殻にも戻れなくなってしまう。
それともいい貝殻だと思って移ったはいいが、どうも自分にぴったりこない。

悪くすると、人は無意識からやってくる別の物語に食われてしまったりもする。
とくに自我の成長が弱かったり柔軟性がなかったりするときなど、
大きな物語(集合的なかたちでの大きな無意識)の前ではひとたまりもなかったりする。
とくに、過去の「定番のアイテム」に戻ろうとするのは一見簡単なものだから
そちらのほうに言ってしまうと、ちっぽけな自我などはひとたまりもない。
とはいえ、自分のちっぽけな自我を心配するあまり
みんなで集まれば大丈夫かといえば、それもまた
別の大きな集合意識のなかでみずからの自我の灯火を灯すだけで
結局は自我を無にしてしまうことにほかならない。

考えれば考えるほど難しいことだけれど、
どちらにせよ既成の自分の物語が壊れそうなときには
少なくともそれを組み替えなければ立ち行かない。
さて、どうするか・・・。