風のトポスノート671

 

ユングの心的エネルギー論


2008.10.21

 

ユング理解のためには必須であるにもかかわらず
まとまった解説が書籍などではあまりないという
「心的エネルギー論」について、
林道義さんのサイトにわかりやすくまとめたものがあったので、
それをご紹介することにしたい。
以下は、そのかなり端折った中途半端なレジュメになっているので、
詳しくは、以下のサイトをご参照ください。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/jung5-3.html

ユングは、心をエネルギーとしてとらえていて、
それがユング心理学の基礎にもなっているといいます。

心がエネルギーであるという発想には、
19世紀の自然科学の状況がその背景にあり、
心理学にその概念を取り入れたのがフロイトとジャネ。

フロイトのリビドー論というのは、
心的エネルギーのなかで主に性的なエネルギーを表現したものですが、
それがほかのさまざまなエネルギーに形を変えていくというふうに考えました。
いわゆる「昇華」。

しかしユングは、性的なエネルギーがすべてだとは考えなかったので、
最初は「リビドー」という言葉を使っていたものの
もっと一般的に「心的エネルギー」という表現を使うようになりました。
その「心的エネルギー」という言葉を使うようになったのは、
フロイトの「抑圧理論」に疑問をもったからでもあるといいます。
つまり、無意識のエネルギーは意識が否定したものだというふうに
無意識と意識を必ずしも対立的にだけとらえることはしなかったということです。

フロイトは心のメカニズムという表現をしていたように、心の仕組みを機械にたとえ、
抑圧の原因と結果というように因果論的に意識と無意識をとらえましたが、
それに対してユングは、心のあり方を機械にたとえるのではなく、水の流れにたとえ、
「心のエネルギーの流れ」というふうに考えました。
しかも、抑圧の原因を明らかにし無意識を意識化するというような
目的に向かう原因とそれに向かうプロセスいうような因果論ではなく、
「目的論」として位置づけました。

この「目的論」というふうに訳される言葉は
ドイツ語で Teleologie と Finalismus の二つがあるというのですが、
Teleologieというと最初に目的が決まっていて
すべてのプロセスがそれに向かっているという
上記のようなフロイト的なとらえ方であり、
それに対して、Finalismus だと、最初に目的が決まっているというのではなく、
プロセスとして展開するうちに姿を現わしてくるというとらえかたです。
ユングのとらえかたはその後者であって、
「個性化」や「自己実現」にしても、
結果よりもプロセスを中心にとらえているということを理解しておく必要があります。

さて、今度は、ジャネの心的エネルギー論ですが、
ジャネは、心のエネルギーを意識が使っているか無意識が使っているかというこ
と、
そしてその強さによって人はまったく違った行動を取ると考えました。
そしてその考えをユングは全面的に採用したといいます。

   その人の持っている心的エネルギーというのは、総体としては同じであると
  ジャネやユングは考えました。意識のエネルギーが小さいと無意識のエネル
  ギーは大きくなる。逆に、意識のエネルギーが大きくなると、無意識のエネ
  ルギーが小さくなる。こんな単純な見方でも、心を見るときには大きな意味
  を持ってきます。つまりは意識と無意識、どっちのエネルギーが大きいかで
  その人の態度とか行動、その人の人生までもが決定的に影響を受けてくるわ
  けです。
  (・・・)
  我々が社会人として常識的に行動したり仕事をしたりするためには、心のエ
  ネルギーが意識的に使われる必要があります。そのためには、意識が一定程
  度以上に緊張している必要があります。この緊張が一定程度以下になると、
  エネルギーは無意識の方に行ってしまいます。つまり、意識と無意識の間に
  目に見えない境界があって、エネルギーがそこから向こうに行くか、こっち
  に来るかで違いが出てきます。それによってまったくの別人になってしまう、
  まったく違った行動をする。この境目を「識閾」(しきいき)とユングは言い
  ました。この境界線を中心にして、意識のほうが充分に強いとエネルギーが
  こっちへ来ている、意識が弱いと向こうに行ってしまうと考えたんですね。

  ジャネが問題にしたのは、要は意識の強さです。意識の強さが充分にあると
  その人は普通だけれども、意識が弱くてエネルギーが無意識の方に行ってし
  まうと精神病になったりして、病的だと判断されるということなんです。つまり、
  彼の言う心理緊張力というのは、意識の強さということなんです。

さて、フロイトとジャネに共通しているのは、エネルギー保存則の見方のように、
心のエネルギーの総量が一定していると仮定していることで、
意識と無意識の間でエネルギーが行ったり来たりしていると見ています。

そのように、エネルギーがこのように行ったり来たりする状態を、
ユングは「エナンティオドロミー」と言いました。
古代ギリシアの哲学者、ヘラクレイトスの「万物は流転する」というような見方です。
それで、意識が一面的に偏りすぎるときに、その反動として
その反対のものがでてくることをユングは「補償」と言いました。

   意識があまりにも偏っているときに、無意識から補償が現れる。例えば、働
  きすぎの人が突然働けなくなってしまうようにです。心というのは、どうも
  最初から平衡を取るようにできているみたいなんです。これはホメオスタシ
  スと呼ばれています。自然に平衡を取るように働くんですね。

しかし、自然界と違って心のエネルギーは、ときに片方にいったままになって
しまいます。

  無意識の中にエネルギーが行ったままになる状態を、退行 Regression と言い
  ます。これは、エネルギーが無意識の中に行って、こっちに戻ってこない、向
  こうの中で閉じ込められてぐるぐる回っている状態です。
  (・・・)
   こうした状態がいつまでも続くと、自閉状態とか鬱病になったりする。もっと
  ひどくなると、無意識の中のイメージが現実のものと思えるようになってきて、
  分裂病になる。

だから、そうしたイメージをもう一度意識の方に呼び戻す必要がある。
心のエネルギーを方向転換するということです。
それは、無意識の要素を意識の中に取り入れるということで、
「全体的な構え」になる、つまり「個性化」をはかるということでもあります。

   つまり大事なのは、エネルギーの流れが逆方向に転換するということです。例え
  ば、電車は線路を進んでいきますが、線路が右左二つに分岐しているところに来
  ます。いつもは左の方向に進んで行くものが、右の方向に行こうとするならば、転
  轍(てんてつ)、すなわち線路のポイントを切り替える必要がある。これがエネルギ
  ーの転換ということです。例えば、いつも無意識の方に行っていたものが、意識の
  方に向くように転換される。また、母のイメージがいつも怖く逆らえないようなも
  のであったが、あるときその母を倒すようなイメージに変わる。これらは心が転換
  したんです。この時に、シンボルも変わっています。心のエネルギーが転換すると
  いうのとシンボルが変わるというのが、タイアップしているんです。

さて、そうしたエネルギー転換は、社会的に見ると、
文化というのがエネルギー転換の装置になっているといいます。

  我々の文化というのが、自然の衝動が勝手に動かないようにするための枠になっ
  います。その枠が、心的エネルギーをうまく導いていく役割を果たしているわけ
  ですね。
   宗教とかイデオロギーとかいったようなものも、みんなそうなんです。例えば救
  済宗教は、この世の救いからあの世の救いへと心のエネルギーを向けているんで
  すね。

しかしその方向転換が恐ろしい方向に向かうときがあり、
ユングも引き合いに出しているナチスもそうだといいます。

  エネルギーを大きく転換するというのは、非常に危ないことなんです。慎重に見
  定めていかないといけない。今までのことを単に否定するのではなくて、それが
  よりよい形で現われることができるようなシンボルが出てくるというのがいちば
  んいいんです。
  シンボルというのが、エネルギーを転換する作用をする。だから、よい方向にエ
  ネルギーを転換させるよいシンボルというものが必要になります。人間のエネル
  ギーがどういう方向に流れるかを決定するという意味で、シンボルの役割は非常
  に大事です。

このように、 心をエネルギーとしてとらえ、
それをエネルギーの転換という観点から考えていくことで
わたしたち一人ひとりの問題も、また社会や文化の問題点も見えてくるのだと いうわけです。

以上、林道義さんによる「ユングの心的エネルギー論」の紹介でした。
*これにコメントをいろいろつけようと思いましたが、
あまりに長くなりますので、別の機会にすることにします。