風のトポスノート670

 

先に進むこと


2008.10.21

 

   いまさら昔に帰ることはできないし、たとえ出来たとしても無意味であろう。
   われわれは先に進むことを考えねばならない。
   (河合隼雄『日本文化のゆくえ』岩波書店 2000年「まえがき」より)

「先に進む」ことを考えるためには、
「人間の魂の進化」について考える必要がある。
そのときにシュタイナーの精神科学ほど総合的な意味で示唆的なものは
ぼくにとってはいまのところ見つかっていない。

とはいえ、それを受容する際に問題となるのは、
それを受容できるだけの準備がどれだけできているかであるように思える。
禅における卒啄同時 (そったくどうじ)のように、
みずからが卵の内側から殻をつつく努力なしに
外からどんどん殻をつつきすぎると生まれることなく死んでしまうからである。

シュタイナーは、たとえば『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』をはじめ、
その基本的な「諸条件」に関してはしっかりと示唆してはいるのだが、
たとえばシュタイナーの生前においても、「友愛の協会」に「人間的な争い」が起こり、
それぞれの「魂の性質を変化」させるよう繰り返し訴えたことからもわかるように、
みんなが他者の卵の殻をつつこうとすることばかりに終始し、
内側からみずからの殻をつつこうとすることが少なかったのではないかとも思えてしまう。
そうなるとまさに卵はまったく孵ることなく、共倒れになってしまってもおかしくない。
従って、「先に進む」前に、その前提となる部分を
それぞれが周到に準備しておく必要があるように思える。

このところその「準備」にあたってとても有効な示唆として
あらためてユング関連のものを読み続け、
それが卒啄同時の内側からの努力のひとつとして
とても重要な視点であることをあらためて感じている。
とはいうものの、ユングだけであれば、「先に進む」には不十分でのように思える。
分析心理学の「臨床」やユングの研究を参考にすることはとても有意義なのだけれど、
そこから「先に進」もうとするときに必要な何かが決定的に欠けている。

たとえば、日本でおそらくユングについてしっかりと理解しようとするときに、
訳者でもあり研究者でもある林道義さんのすぐれた営為は外すことができないが
たとえば「父性の復権「母性の復権」などでのバトルや
名誉教授になれなかったからといって東京女子大を告発するなどの行為は
その正当性云々は別としても、研究にあたって見られたようなすぐれた言葉が 影をひそめ
なにかしらのみずからの「権威」への「影」の部分が全面に出ているように見 えてしまう。
これが同じ人物なのかと思えるほどになってしまっているようにぼくには感じられる。
これは、まだ見えない「先」に進もうとするときに、
それまでもっていた地図が役に立たないときに陥ってしまうある種の状態なの かもしれない。
すでにほとんど役に立たなくなってしまっていた地図にしがみついてしまうわ けである。

また、河合隼雄さんの示唆は、臨床的な部分でも、
もっと広い日本文化についての部分でも、大変示唆的ではあるけれど、
たとえば、ユング研究においてもとても複雑で理解されにくい部分である
錬金術的な部分などに関してなど、ある種の部分性を余儀なくされているとこ ろがあるし、
あえて神秘学的な部分から距離をとっている分だけ、
「先に進む」にあたって、かなりムード的になってしまうところがある。
これはとてもむずかしい部分ではあるのだけれど・・・。

ともあれ、そうしたところはあるとしても、
今この自分の魂のありようを殻の内側から
懸命に突こうとする営為に関しては、
ユングの示唆というのはシュタイナーを補完するものとして再認識し、
ある意味、シュタイナーとユングを反復横跳びしていくようなことが必要であ るように思える。
自分の心の闇を見ないままでは「自己教育」はできようはずもないからである。
それができないと、「先に進む」どころか
そのつもりでただ先祖返りしていただけということにもなりかねない。

ということで、ここしばらくは、なにかと
ユング関連のものをいろいろ探ってみたいと思っている。
「先に進む」ための基礎条件づくりのためにも。