風のトポスノート667

 

影との対決/アニマとアニムス/人間化


2008.10.4

 

シュタイナーの『自由の哲学』の第14章「個類」には、こうある。

「人類を類の性質に従って評価する人は、自由な自己規定に基づく人生が始まる
以前の段階のところに立ち止まっている」
「個人がどのような考え方をするかを何らかの類概念から導き出すことはできな
い。そのための唯一の尺度は個人なのである」
「個人を理解しようとするなら、その人固有の本性にまで眼を向けなければなら
ない。類型的な特徴に立ち止まってはならない」
「自由な個性が類の特性から自分を自由にするように、個を認識する行為も類的
なものを理解する仕方から自分を自由にしなければならない」

要は、自由な個となるためには、類から自由になる必要があるということである。
しかし、この自由を獲得するためには、大いなる試練がそこにはあって、
たとえば、男だとか女だとかいう性の類型から自由になるためには、
自分がいかにそれらによって規定されているかを理解し
そのみずからの影と対決しなければならない。
自分を「日本人」だとか「〜県人」だとか「〜出身」だとか「〜家」とかいった
典型的な「類」から自由になることも同様である。
それは一種のイニシエーションでもあって、
その困難を通過しない限り、「自由」を得ることはできない。
逆にいえば、自分がそうした「類」からいかに自由でないかを
まずはしっかりと認識しなければならないのである。

そのためには、まず人は、みずからの「影」の部分に
しっかりと向き合う必要があるだろうし、
その上で、ユングのいう「アニマ」「アニムス」が
いかに自分に影響を及ぼしているかに気づくことが不可欠であるように思う。

以前から、シュタイナーが、男性のエーテル体は女性、
女性のエーテル体は男性とかいうことを示唆しているのが気になっていたが、
それを「アニマ」「アニムス」と重ねてとらえてみるのも興味深いところである。

ゲルハルト・ヴェーアの『ユングとシュタイナー』を先日読み返してみて、
その両者は思った以上に根っこのところで共通点があるように思えた。
もちろん、恣意的に部分的な観点を挙げて同じだとかいうことは避けるべきだが、
その共通する部分とともに、相補性の部分について丁寧に見ていくことで
私たちに欠損しがちな部分を補うこともできるのではないかと思っている。

   ユングはまた「元型の両極性」について語っているが、そうした両極性は、
  意識的なものと無意識的なもの、あるいは心性の優越機能と劣等機能とを意味
  するのみならず、男性原理と女性原理をも表示している。この両者のためにユ
  ングはアニムスとアニマなる名辞を作り出した。
   シュタイナーの伝達内容の中には、これと完全に合致するわけでは全くない
  が、ある類比的な要素を含むものが見出される。その中には、生命過程を司る
  エーテル体ないし形象力体の内、男性の形象力体は「女性的」な、女性のそれ
  は「男性的」な性的特性を持つとの主張がある。
  (ゲルハルト・ヴェーア『ユングとシュタイナー』
    第9章第7節アニムスとアニマ/人智学出版社1982 P.313/314)

アニマは、男性の心のなかにあって深く影響を及ぼす心像で、
たとえば夢のなかでは女性像をとって現れることが多いという。
そのアニマを追っていくと、最初はアニマ以前に母親の像が現れることも多く、
ある意味、マザコン状態で、アニマにさえ移行できない男性も多くあるようである。
アニマには、図示的にとらえただけでも、
生物学的な段階、続いてロマンチックな段階、
霊的な段階、そして叡智の段階があるとされるが、
みずからの内なるそうした女性的要素でもあるアニマを発展させていく必要がある。

また、女性の場合は、いわゆる女らしい外見に対して、
無意識の内には劣等な論理性や強さが集積されていて、
それがたとえべ夢のなかでのイメージでは男性像となってあらわれるといい、
それがアニムスと名づけられているのだが、
それにはアニマ同様、図式的にとらえただけでも、
力、行為、言葉、意味の段階があるとされたりもする。
で、ほとんどの場合、力強さや頼もしさ、権威づけなどといったものに
ふりまわされているだけだということがわかる。

アニマ、アニムスについて詳しく見ていくと大変興味深いけれど、
ここでは、そういう「類」的なもののひとつの根深い根っことして
それらをそれぞれが自覚的に見ていく必要があるということだけを言っておきたい。

「自由の哲学」というのも、そういう意味で、抽象的にとらえるのではなく、
自分がいかに自分を不自由にしているさまざまなもの影響を受けているか、
そのひとつひとつを具体的にチェックしていくことが重要で、
「私は女だから」とか「俺は男だから」というようなばかげたことに
こだわっている自分を直視する勇気というのが最低限のスタートであるといえる。

単純な話、みずからのアニマ、アニムスと向き合ったことのないまま
相手を個としてではなく、「結婚」という制度ありきで結婚したどうしが陥りがちなのは、
男性は、自分を無条件に認めくれた母親のような相手でないことに腹を立て、
たくましく頼りがい、確かな権威のある相手でない相手に愛想を尽かすようなこと。
どちらも、実際は相手が問題であるのではなく、
自分の内なるアニマ、アニムスとバトルしているわけであるが、
それに気づかないまま、それを統合することができないでいるだけのこと。

こうしたアニマ、アニムスについて見ていくためには、
自分の無意識の部分の「影」に対峙する必要があるといい、
そうしなければ、人格の全体的な統合を図ることはできない。
そうしたことを「イニシエーション」という言葉で表現することもできる。
もちろん、そうした「イニシエーション」は一度統合したらOKという
のではなく、
おそらく無限に近いまでのさまざまな段階、進展がある。

そうしたユングでいえば「影との対決」と対比できるのは、
シュタイナーでいえば、イニシエーションのある段階における
「ドッペルゲンガー」「境域の守護霊」である。

   イニシエーションの道におけるアニムス=アニマ問題に携わるためには、も
  う一つの課題を解決せねばならない。即ち「影」に対峙せねばならないのであ
  る。ユングは、ほかならぬ、さしあたり意識されざる否定的な、自我の影の側
  面を意識化し、受容し、その生成しつつある人格的全体性の内へと統合する際
  に分析家に生じてくる問題を、そのように名付けたのであった。この現象は、
  人智学の修練道における「境域の守護者」、ないしドッペルゲンガー像を想起
  させるものであるが、それについては他所で論ぜられよう。ここで影との対決
  について言及しておかねばならないのは、その影との対決を克服して初めて、
  個我化過程はアニマないしアニムスとの対峙という、より困難な課題設定に歩
  みを進めることができるからである。ヨランデ・ヤコービはそれを次のように
  根拠づけている。「自我とその影との総体こそが、かの包括的な意識、即ち元
  型的諸力、とりわけ異性的諸像に立ち向かい、それらに取り組む力を持った、
  かの包括的なる意識を提示するのである」。
  (ゲルハルト・ヴェーア『ユングとシュタイナー』
    第9章第7節アニムスとアニマ/人智学出版社1982 P.314)

外的に自分に対峙してくるとしか思えないものであるとしても、
それは、自分の「影」としてとらえてみることがまず重要である。

自分の「影」についていちばん卑近にとらえることができるのは、
たとえば、気がつけばそのことばかりを心に浮かべているような
極めて否定的な誰か(嫌いな人・うらやましい人・・・)のことだろう。
言葉をかえていえば、ある意味「執着」ということでもある。
その「執着」は自分が執着しているにもかかわらず、
それらはあたかも外から自分を脅かすものとして対峙してくる。

それらの「影」は、まさに自らの「影」であって、
自分が見ないようにしているそうした部分を自覚、対峙し、
それを「人格的全体性の内へと統合する」ことで、
その都度の「イニシエーション」が行われているというふうにとら
えることができる。

そうした対峙を避ければ避けるほど、
人はますます人格を卑小なまま放置してしまうことになる。
いわば、逆イニシエーションである。
それは、人間になるプロセスではなく、
人間を逸脱していくプロセスであるといえるかもしれない。
過去の叡智にしがみつく行為もまた同様である。

   両性具有者、即ち同時に男女両性的である人間に関する古代神話は、人智学
  の人間像において、完成され、更新される。シュタイナーの人間学的モデルを
  引き合いに出すならば、次のように言わねばならない。即ち人間を男性ないし
  女性たらしめる要因となるものは、人間の外皮なのであって、個々の人間の核
  心ではない。性的差異は、物質的身体、形象力体、魂体などの身体性に固有の
  ものである。これに対して人間の中枢としての自我は、男性的でも女性的でも
  ない。シュタイナーが自我と名付けたものは確かに、民族的、人種的連関の下
  に、明瞭に性的分化を遂げた肉体の内に受肉する。しかしながら、自我の淵源
  でもある(霊的)秩序は、このような種族的分化を知らない。霊的には男性も
  女性も第一に「人間」であり、文化や因習によって取り行われる様々な価値決
  定はそもそも人間の霊的源像が見過ごされたり、まだ未だそこに達しえないで
  いる場合にのみ現前するのである。しかしながらまさにこの人間の人間化に至
  り着くことこそが、人間の課題である。  
  (ゲルハルト・ヴェーア『ユングとシュタイナー』
    第9章第7節アニムスとアニマ/人智学出版社1982 P.318)

この「人間の人間化」というのは、まさに「人間の課題」ではある。
「自由の哲学」の本来の意図もこうした「人間の人間化」にほかならないだろう。
人をさまざまな類(民族、国籍、職業、性別、名前、血縁、所属団体等)でしか
見ることができないということは、まさにそれに逆行することである。
もちろん、その逆行をしないために、類に対する意識化は必要になるだろう。
その意味で、共同体の類化のようなありようにも注意深くある必要がある。
それもまた「人間化」ではなく、「集合化」し逆行する道なのだから。