風のトポスノート666

 

対立しあうものの結合


2008.9.17

 

ノートの「666」だからというのでもないけれど、少しだけ「悪」、
つまり善と悪の結合というテーマについて。

   私たちが善き存在であり悪を抑圧するよう、神は望んでいる。私たちは
  骨の髄までそう信じこんでいる。しかし今では神が私たちに善と悪の緊張
  に耐えてほしいと望んでいるのはまちがいない。そう気づくのは、この世
  でいちばん難しいことなのだ。しかしながら老イザヤは霊感を受けて、
  「私は光を創り、また闇を造る。私は平和を作り、また悪を造る。私、主
  は、これらすべてのことをなす」と書き記した。そんな大昔に、イザヤは
  この真理を理解していたのである。けれども主はおよそ2000年もの間、
  私たちがイザヤの言葉を忘れて正しさという光に浴すがままにしてきた。
  (・・・)
   私たちは神に関する二元的な概念(神とその敵である悪魔)のうちの一
  方を選択するか、それとも神自身が両方の面を含んでおり、だからこそほ
  んとうに全体的かつ全能だと認めるか、どちらかにしなければならない。
  この対立しあうものが両方とも十分に受けいられたとき、それらがいかに
  相対的で、それまでとまったく違うものになることか。そのような経験を
  すれば、対立しあうものを両方含む神を想像することは難しくない。ユン
  グの『ヨブへの答え』はその助けとなる。
   私個人としては、対立しあうものをすべて含むーーそして自然と同じよ
  に創造もし破壊もするーー全体的な神を考えるほうがずっと耐えやすいと
  思う。従来のように世界的な悪の勃発を神の敵である悪魔の仕業ないしは
  人間の過ちとし、純粋に善なる全能の神は悪魔や人間がそうした悪事を犯
  すのをまったく防ごうとしていない、と考えるよりずっと耐えやすい。た
  だし私たちは、自分自身のシャドウや否定的、破壊的側面に直面してから
  でないと、神あるいは元型の否定的側面を受け入れることができない。そ
  うした実例を本書では見てきた。
  (・・・)
   ユングが対立しあうものの結合ということにどれだけ重きを置いていた
  か、それは彼の最後の大著『結合の神秘』がすべてこの主題を扱うのに充
  てられたという事実からわかる。ユングはこの書を著わすのに長い年月を
  費やしたが、実際、ゲーテが『ファウスト』をそう呼んだように、これは
  ユングの「主要業績」であった。
  (バーバラ・ハナー『アクティヴ・イマジネーションの世界』
   創元社/2000.2.20.発行 P.345-346/P.351)

このバーバラ・ハナーの『アクティヴ・イマジネーションの世界』は、
自分自身の全体像を見出すために、自分の無意識と向き合い、
個性化をはかるプロセスの事例を紹介したものだが、
このテーマのなかで、個人の意識と無意識という
対立するものを結合することで見出される個性化のプロセスが、
本書の最後では、世界そのものにおける善と悪という
対立的にとらえられたいたものの結合というビジョンに重ねられている。
ある意味、ミクロコスモスとマクロコスモスの照応という視点から見て、
神は善で悪魔はそれに対立するもので、というような二元的な世界観ではなく、
悪魔を神のシャドー的なものとしてとらえ、
その神の個性化、統合的なビジョンの獲得をめざしているともいえる。

一神教の影響を受けている人でなければ、
善と悪の問題はある意味そこまで深刻なテーマではないかもしれないが、
その対立によって自我及び個を育てる契機は得られなかったかもしれず、
それまである意味外に存在し働きかけていた神々(良心もそのひとつ)を
内面化することは困難だっただろう。
この『アクティヴ・イマジネーションの世界』でもとりあげられているように
エジプトでは、現在「個人」と称するものは死後にしか存在せず、
「たましい」と訳される「バー」も外から働きかけていたという。
個のない人間にできるのは、そうした外から働きかける神々の声をきき
それに帰依するようなありかたしかできなかったわけである。

しかしそういう存在が、個の成立とともに、
次第に内面化することになった。
キリスト教によって個が成立したという研究もあるが、
それまで外にあったものが内なるものになることで
人間はみずからの意識と無意識の対立を抱え込んだともいえるかもしれない。
しかし、一神教における神と悪魔の対立は
教義としても外的に置く以外にはなかったということなのかもしれない。
ユングはその外的な神と悪魔、善と悪の対立をある意味内面化してとらえ
それを魂の錬金術としての個性化というビジョンでとらえているように見える。
神のシャドーとしての悪魔、そしてその結合への道の模索。

さて、この観点をこれまで何度かご紹介したことのある
シュタイナーの視点(『社会の未来』)とあわせて考えてみることができる。

   今日では、私は善き人間として安住の地を得、すべての人間を愛する思想
  を伝えたい、などと望むことが大切なのではありません。私たちが社会過程
  の中に生きて、悪しき人類と共に悪しき人にもなれる才能を発揮できるとい
  うことが大切なのです。悪い存在であることが良いことだからではなく、克
  服されるべき社会秩序がひとりひとりにそのような生き方を強いているから
  なのです。自分がどんなに善良な存在であるかという幻想を抱いて生きよう
  としたり、指をしゃぶってきれいにして、他の人間よりも自分の方が清らか
  である、と考えたりするのではなく、私たちが社会秩序の中にあって、幻想
  にふけらず、醒めていることが必要なのです。なぜなら幻想にふけることが
  少なければ少ないほど、社会有機体の健全化のために協力し、今日の人々を
  深く捉えている催眠状態から目覚めようとする意気込みが強くなるでしょう
  から。

シュタイナーはここで社会過程のなかでの人間のあり方について示唆しているが
社会過程のなかでというだけではなく、
ひとりひとりの人間の魂において、「醒めている」ということが必要で、
そのためには、自分の意識と無意識を可能な限り
統合させるという方向性が欠かせないだろうと思われる。
そのためのもっとも基本になるのは、
自分だけが善で悪はひとごとだととらえるのではなく、
自分が無意識のなかに排除し、自分ではないと思い込んでいる
悪の側面を認めそれとの統合を果たすということである。

とはいえ、自分が正しいと思っていることは
自分が間違っていると思っていることと対立していて
その間違っていることは、外的なものだと思うのは簡単だけれど、
それがみずからのシャドーだという観点を検討するのは大変むずかしい。
早い話、自分は正しくて人は間違っていると思う世界で生きた方が
その範囲ではとても楽に生きることができる。
そして、その正しさを世の中にひろげていけば
社会は正しくなる、と思うのも世界観としてわかりやすい。

しかし、自分は正しくて人は間違っていると思うだけの世界は
一種の催眠状態で、みずからの影を見ないがゆえに成立する世界でしかない。
言葉をかえていえば、正しさを深めていくためには
その影になって見えなくなっているものに光をあてて
それと結合していくプロセスが不可欠で
そうでない排除型の正しさは、むしろ悪を際立たせてしまうことになる。

その意味で、現代のような悪の屹立したように見える世界だからこそ、
みずからを善良な人間として位置づけるのではなく、
醒めた人間として自らの影の統合、個性化をめざすことが求められるのではないか。

とはいえ、この『アクティヴ・イマジネーションの世界』の事例でもわかるように
自分の影に向き合うのはそうたやすいことではなく、
ある意味、死をかけてまで挑むほどのことであるのは確かで、
「醒める」ことを要求するとしたら狂ってしまう人のほうが多いのかもしれない。
その意味でも、ユングやジョーゼフ・キャンベル、河合隼雄さんなどが強調する
ように
神話や物語を有効に機能させることがどうしても必要なのだという気がしている。