風のトポスノート665

 

死後の座標軸としての生前


2008.9.12

 

   その後、私が『死者への七つの語らい』を書いたときも再び、決定的な問
  いを私に投げかけてきたのも、死者であった。彼らはやってきた、そして言
  った。「エルサレムより帰る。彼れはそこに探し求めたものを見出すことが
  できなかった」と。このことは、当時の私を大いに驚かした。というのは、
  伝統的な考え方に従うと、死者は偉大な知識の所有者であるはずだったから
  である。人々は、死者はわれわれ生きているものよりも、はるかに多くのこ
  とを知っており、キリスト教の教義は、われわれは来世において「目のあた
  りに見る」だろうと教えているからである。しかしながら、死者の魂は彼ら
  が死んだときに知っていたことのみを「知っており」、それ以上のことは知
  らないようである。このために、彼らは人間の知識を分けあたえられようと
  して、生者の世界にはいりこむ努力をしているのだ。私はしばしば、死者た
  ちがわれわれの真うしろに立ち、われわれがどんな回答を彼らにあたえ、運
  命に対して応えようとしているかを聞こうと待ちかまえているように感じる。
  (・・・)従って、生者の心は死者のそれよりも、少なくともひとつの点で
  優っている。すなわち、明確で決定的な認知を達成させる能力の点である。
  私のみるところでは、時間、空間における三次元の世界は一種の座標軸のシ
  ステムのようなものである。こちらの世界で縦軸と横軸に分離されているこ
  とが、「あちら」の世界、空間ー無時間の世界においては、多くの側面をも
  った原始心像として、多分、ひとつの元型を囲む漠然とした認知の雲のよう
  なあつまりとして見られるかもしれない。しかし、何らかの分離した内容の
  判別が可能なかぎり、座標軸のシステムは必要である。このような操作は、
  漠然とした全能の科学や、時空の境界のない主体のない意識のような場合、
  座標軸のシステムをもつような操作は、考えもつかないことのように、われ
  われには思われる。認知は、生成と同じく、対立を前提としている。すなわ
  ち、こちらとあちら、上と下、前と後の対立を前提としている。
   死後も意識が存在するならば、それはそれは人類によって達成された意識
  のレベルにまでつながるものであると、私には思われる。この意識のレベル
  は、その時代ごとに、変化はあるとしても上限をもっている。多くの人は、
  その生涯を通じて、そして死の時に、彼ら自身の可能性を伸ばさないままで
  いるし、ーーより大切なことはーー彼らの生存した時代に他の人々によって
  意識にもたらされた知識よりは、おくれた地点にいる。このために、死後も、
  彼らが生前に獲得できなかった認知の一部分でも達成しようとする要求が存
  在するのである。
  (C.G.ユング『ユング自伝2ー思い出・夢・思想ー』みずず書房/P.148-150)

死者が生前の時点に立ち止まっているということは、
生前において理解できなかったことは、死後には理解できないということである。
「バカは死ななきゃなおらない」ではなく「バカは死んでもなおらない」。

もちろん、だれでもかなりな程度「バカ」なので、
それはそれで仕方のないことではあるのだけれど、
生前獲得可能な認識の最低水準を得ていなければ、
死後はかなり困った状況になるということでもある。
だから自殺は、認識を自閉させてしまうので
ある種閉じた卵のような状態になって働きかけができなくなってしまう。

この地上を生きることは、だれにとっても、
それそのものがけっこうなバカではあるとしても、
少なくとも、ここには三次元的な空間性にせよ、
この地上を生きる私たちが共通してもっている「座標軸」がある。
「こちらとあちら、上と下、前と後」、
そしてそういう「対立」による認識である。
それを学ぶために、おぎゃーと生まれてからよちよち歩きをはじめ、
ちゃんと身動きができるようになるまでに、
どれだけの年数が必要かを考えてみると
そのことがどれほど重要なことなのかを理解することができる。
そしてそのことを通じてしか「私」ということを成立させられないわけである。

従って、私たちが生前おこなっておかなければならないのは、
その最低限の「座標軸」から、その時代において認識可能なものを
死後も使用可能な「座標軸」へと展開しておくことなのではないだろうか。

シュタイナーも、生前キリスト認識を得ているかどうかが重要で、
死後はじめてそれを得ることはできないということを述べているが、
その「キリスト」も重要な「座標軸」のひとつなのだろう。

また、シュタイナーは、死後はあらゆる叡智が入ってきてしまうので、
死後はむしろそれを制限できるようにならなければならないとも述べていた。
叡智の制限のためには、この地上において
可能な限り認識力を高めておくことが必要だともいい、
おそらくそれは、死後におけるなんらかの「座標軸」の形成に
大きな力になることになるのだろう。

さて、生前において理解できなかったことは、死後には理解できない、
ということを思い、いまの自分をふりかえってみると
これはとんでもないことだな!と焦ってしまうのはぼくだけではないかもしれない。
死んだことだけはわかったけれど、さてどうしよう・・・というのは
かなり情けない状況ではないだろうか。
その意味で、シュタイナーの精神科学は、生においても死後においても必要な
認識の全体像をかなり効率的に教えてくれるものである。
そう考えると、現代に生まれてきているというのは、
かなり恵まれていることだということは確かで、
この機会を活用しないのはもったいないといつも思いつつ、
焦りながらも、毎日、ぼんやりとすごしている怠惰なぼくなのでした。
おそらくこの怠惰さは、死後のさらなる焦りにつながってしまうのだろうけれど・・・。