風のトポスノート664

 

克服のプロセス


2008.9.12

 

   なにはともあれ、私にとっては解脱ということは存在しない。私が所有し
  ないもの、行なったことのないこと、経験しなかったことなどから、解放さ
  れることはありえない。私のなしうることをすべて行なったときに、私があ
  る一つのことに完全に没頭し、究極まで関与するときに、私にとって真の解
  脱が可能となる。私が関与することから身を引けば、事実上私は自分の精神
  に呼応する部分を切断したことになる。所与の経験に十分に没入できないと
  いうことには、当然それなりの理由があるであろう。しかしそのような場合
  に、私は自分の無能を告白せざるをえないし、本質的に重要ななにものかを
  しないで怠っていることを認めなければならない。このように、自分の無用
  性を明確に知ることによって、積極的行為の不足を補っているのである。
   情欲(パッション)の地獄を経なかったものは、また情欲を克服すること
  もない。情欲が隣に住んでいても、いつなんどき炎が燃え広がり、自分の家
  に火の手があがるかもしれない。我々が見棄て、置き残し、忘れ去ったとき
  にはきまって、なおざりにしたはずのものが、力を増して舞いもどってくる
  危険がある。
  (C.G.ユング『ユング自伝2ー思い出・夢・思想ー』みずず書房/P.107-108)

すでにできることは、克服する必要はなく、
むずかしいからこそ、どうしてもそれを避けることはできないのだろう。
そこで、克服することのむずかしいことばかりが押し寄せてくるようになる。

見ないようにすることはできるかもしれないが
なかったことにすることはできない。
見ないとしても、実際に襲いかかってくるものには
なんらかの対応を迫られることになるのだから。

ある人にとっては情欲の地獄であったとしても、
ある人にとってはその炎は暖を取るものなのかもしれない。
ある人にとってはあまりにむずかしく考えることのできないほどのことであったとしても、
ある人にとっては詩情さえ感じられるほどの思念の束なのかもしれない。
だから仏陀へ向けられた剣や矢は仏陀にとっては花に変わる。
そして仏陀ではない私たちにとってはそれらは私たちを激しく傷つけるものとなる。

蛾のようにみずからが炎の中に飛び込んでいくとき、
その炎は自分にとって未知で不可解で制御できないものとして体験されるだろう。
しかし、未知は道であり不可解は理解への格好の導き手となる。
まだバッハを聴いたことのない人にとって
バッハを聴くという大きな音楽の宝物があるようなものともいえるかもしれない。

解脱ということが逃避ではないのはそういうことなのだろう。
その意味で、解脱の「解」は謎を解きほぐすということでもある。
謎はすでに解いた者にとっては一幅の絵画のようなものかもしれない。
またはもっとも愛する音楽を味わうようなもの。
そしてまだ謎であるときには、それは不可解な世界の壁であり
不協和の軋りとしてしか現われることのないものかもしれない。

向かってくるものには、礼拝すること。
その謎は私たちに向けられた花である。
その花がどのように見えるか。
それが私たちそのものを
克服することの必要な私たちの姿を
おそらくは表現しているのだろう。

もちろん礼拝の仕方はさまざまで
ときには激しく戦う必要もあるだろうし
泣き叫んで狂気することが必要なこともあるだろう。
しかしそれはそれらが克服する必要のないものとなるとき
みずからそのものとなっていることに気づくことができるかもしれないのだ。
憎む相手がみずからの内なる存在とさえなるように。