風のトポスノート663

 

世界の共創造


2008.9.11

 

   錬金術師たちは「自然が不完全なままに残したものを、技術が完全にする」
  という。人類、つまり私が客体的存在として認めれば、それによってはじめ
  て、見えざる創造行為のなかにある世界が完成される。この創造の業は、ふ
  つうは創造主の御手によると考えられているが、そう考えると生命や存在を
  計算しつくされた機械とみなし、人間の精神も含めて、あらかじめ熟知され、
  決定された法則によって、無意味に経過し去って行く機械とみていることに
  なるとは考えつかない。このような味気ない正確さばかりの空想には、人間
  と世界と神との演じるドラマはない。「新しい岸」に導く「新しい日」はな
  く、ただ計算され尽くした退屈な過程をたどるだけである。年老いた、あの
  プエブローインディアンのことが、私の心に思い出された。プエブロ族の存
  在理由は、彼らの父である太陽の運行を日毎に助けることにあった。私はそ
  のプエブロ族の信仰の意味に満ち足りているのを羨ましく思い、われわれの
  固有な神話にもなにかりはしないかと求めてみたが、望みのないことだった。
  人間にとっては創造の完成が不可欠であり、実際に人間が第二の世界創造者
  そのものとして、世界をはじめて客体的存在たらしめるものであることが、
  私にははっきり分った。世界に客体的存在が付与されていなかったら、世界
  は聴こえず、見えず、音もなく食べ、生まれ、死に、頭をうなだれて、幾億
  年もの間の時が流れ、非存在のうちに、果てしない終局を迎えるであろう。
  人間の意識が客体的存在と意味とをはじめて創り出し、そしてそうすること
  によって人間は偉大な存在過程に不可欠な座を見つけるのであった。
  (C.G.ユング『ユング自伝2ー思い出・夢・思想ー』みずず書房/P.79-80)

シュタイナーの宇宙進化論においても、
世界は人間が放出し共創造しているものとして位置づけられている。
上記のユングのとらえ方は、詳細なプロセスを欠いてはいるけれど、
基本的にシュタイナーの世界観と軌を一にしている。

「錬金術師たちは」とあるけれど、
その呼び名は「神秘学徒」とかさまざまであるとしても、
現代においておそらくもっとも必要な世界観は
そうした意味での「錬金術」的な人間原理であるように思える。

人間がいなくても、いやむしろいないほうが
世界は正しく生成する・・・というような視点もあるが、
そうした世界観はむしろ世界をごく一面的にしか見ていないのではないかと思う。
たしかに、人間は自然環境を破壊し続けその問題は山積しているとしても、
人間なしでの自然環境というのは、
宇宙の生成そのものが否定されてしまうこ とになる。

論理としては表現がむずかしいけれど、
人間がいなくても・・・という視点は、
その視点そのものをも無にしてしまうことが前提になっている。
そうした、前提そのものを見過ごしてしまう議論というのはよくあって
たとえば人間は動物だというのも、
人間のなにが動物なのかということが議論されないと
では動物は人間だということも成立してしまうことになる。
重要なのは、人間のどこが動物ではない部分で、
その部分が、人間は動物だと言わしめていることを忘れてはならない。

ところで、プエブロ族の存在理由は、
彼らの父である太陽の運行を日毎に助けることにあった、というのは美しい。
しかし、美しくあるところでも美しくないところでも、
わたしたちのすべては、世界の運行に深く関わっているということを
日々忘れないようにすることがこれからはとても大切になってくるように思う。

自殺する者や人を殺したりする人が絶えないのも、
自分が、そしてその人が、関わっている世界の運行のことを
まるで知らずにいるということが根本的な理由なのではないか。
自分が世界の運行に深くかかわり、世界を共創造していると知っていれば、
そしてそこに自分の魂のあり方が深く関わっているのだと知っていれば、
どんなに悲しく苦しく惨めであったとしても、
自分という織物をただ勝手に引き裂いてしまうことが
許されないということはおのずと知れることではないだろうか。
そうすれば、すべてのものに対するみずからの位置が
曼荼羅に折り込まれた輝く存在であるということが見えてくる。
仏教で苦を克服するというのが重要になってくるのも、
苦を去るというのではなく、
苦そのものを味わう(求めるのでも避けるのでもなく)ことだ
ということがわかるのではないだろうか。
苦さえも共創造しているというみずからの存在の意味が。