風のトポスノート662

 

シャドーへの視線


2008.9.11

 

ユングについて、だけではなく、
やはり、ユングの著作そのものをある程度まとまって読もうと
邦訳で手に入る主要著作を調べてみると
『元型論』、『タイプ論』、『ヨブへの答え』、『心理療法論』、
『個性化とマンダラ』、『転移の心理学』など、
林道義さんの精力的な翻訳が目につく。
そういえば、10年前に「ユング・ノート」を書いたとき
ガイドにしてみたのもその著書『ユング思想の神髄』だったりした。

林道義さんといえば、『父性の復権』『母性の復権』などの著書もあり、
「10年前にユング・ノート」を書いたときにも、
その「父性」「母性」の「復権」ということについては、
趣旨が理解できないわけでないものの、
どこか逆行的な印象をもったことを覚えている。
「復権」というように、なぜ「権」という言葉を
強調しているように見えるのかも気になるところ。。

いい機会なので、林道義さんについて少し知っておこうと検索してみると
「林道義のホームページ」というサイトが見つかった。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/

ユング研究でこれだけの業績を残している方で、
「日本ユング研究会会長」とプロフィールにあるので
日本での「ユング研究」の第一人者として自認していることは確かだろう。
とはいえ、ユング派として日本の臨床心理学で活躍した
河合隼雄さんとの対談や著作とかを見た記憶がないなあと思っていたら、
サイトのなかに、河合隼雄批判がたくさんあった。
基本的な趣旨としては、河合隼雄はいいかげんだということだろうと理解した。
そこから「評」を引用すると、
「河合氏の解釈は無方法論的な主観的恣意的」
「河合隼雄氏の出鱈目なすりかえ解釈と詭弁」、云々ということ。
たしかに、「ユング研究」という視点からして、
その「方法論的な誤り」や勝手な解釈とかいうことが目につき、
ユング研究の第一人者としてはその権威からもの申しておく必要がある
ということでもあったのだろうと推察される。

とはいえ、面白かったのは、「東京女子大学を告発」という
退職にあたって「名誉教授」が不授与だったのを告発している記事だった。
たしかに、そこにはいろんな政治的意図があったのだろうけれど、
「名誉」とか権威に対するかなり強い執着があるのは確かのように見える。
しかも、その際、自分が行なっていた授業が
いかに学生に人気で、学校にも貢献していたのかも縷々と綴られていたりもする。

しかし、ユング研究にあれほど精力的であった方が、
ぼくのようなまったくの素人から見ても明らかなように、
権威や名誉へのある種の無自覚が全面にでているというのは面白いところである。
どこかで、自分の「研究」や「学問」から
自分が含まれなくなってしまうところがあるのだろう。
もちろん自分の恣意的なものをできるだけ排し、
厳密な方法論や研究態度をもつということは重要なことではあり、
その姿勢があってはじめて、精力的な翻訳、研究が
可能になったのだろうということは理解できるのだけれど、
その同じエネルギーがみずからの名誉や権威への無自覚なシャドーを
つくっているとしたら、そうした現象というのは、
そのことから学ぶ必要のあることはだれにでもたくさんあるように思える。

河合隼雄さんは、たとえば「ウソツキクラブ会長」とかいって
自分の権威や名誉へのそうしたエネルギーを
危うさの中でバランスさせていただろうことを思うと、
むしろそうした態度が、ユング研究の権威から見ると
気になって仕方がないいい加減な態度として見えていたのかもしれない。
しかもいい加減なくせにあれだけの人気があるというのも
あまり好ましく思っていなかったのだろう。
しかし、そうした権威、名誉に向かうエネルギーがあったからこそ
あれだけの精力的な仕事が可能になったかもしれず、
そこらへんのことをバランスさせる難しさというのは
並大抵のことではないのだろう。

そこで、自分のことを考えてみると、ぼくの問題というのは、
最初から権威や名誉から距離をとって(というか能力的にも皆無なので)
その権威や名誉が無自覚なまま発揮されている状態や
また権威に無自覚に追随するように見えるものに対して
ある種の「アンチ」な態度をとってしまう傾向があるというのが見えてくる。
たとえば、シュタイナー受容の問題について言挙げするときに、
ぼくがわりと無自覚なまでに書いてしまうことなどにも表われていると思う。

こうした姿勢は、決して権威や名誉から自由ということではありえない、
ということは、自分でもわかっている必要があることはいうまでもない。
ぼくは自分なりに、「中」なる姿勢やあり方というのを
大切にしようと思っているけれど、
むずかしいのは、その「中」なる姿勢やあり方であろうとする
そのこと事態がある種のシャドーを生んでしまうことに対して
どれだけ自覚的であり得るかということである。

しかしあらためて、ある種の精力的な活動をされながら
そこにみずからのシャドーへの深い洞察を伴い
権威を肯定と否定の絶妙なバランスのなかで生きてきた
河合隼雄さんのようなあり方にはやはり畏敬を覚えてしまう。
とはいえ、そうした方を崇拝したり教祖化したり、
過剰に権威化したりすることは自覚的に避ける必要がある。
面白いことに、シュタイナーもユングもまた河合隼雄も
そのことについてよく注意を喚起したりしていた。
しかし、そこまで自覚的であることができない方は
やはり、名誉や権威のシャドーに呑まれてしまうことが
往々にしてあるのだろう。