風のトポスノート661

 

必然の自由と偶然の自由


2008.9.9

 

  鷲田 ヨーロッパの自由の概念は、実は必然なんですね。偶然な自由というの
  は恣意的、アーヴィトラリーであって、そんなのは自由じゃないと。だからヨ
  ーロッパの道徳論では、自ずからやっていて、それが法則通りになるというの
  が自由。カントなんかでも、自分がやりたいことをしていて、自ずからそれが
  道徳法則に合うような生きかたができたときに、一番人間は自由だといって、
  実は自由というのは必然にのっとるというところがあるんです。日本の自由の
  概念というのは、行き当たりバッタリのことがあって、偶然を孕みこんで自ず
  からかたちをとったものが、本当の融通無碍の境地というか、自由の境地とい
  う。偶然というものを最後まで孕んだまま、しゃあないやんかとやってるうち
  に収まってしまうという。そういう自由の概念の違いというのをふっと思い出
  しました。
  (河合隼雄+鷲田清一『臨床とことば』2003.2.17発行/P.80-81)

「自由」といっても、その言葉で何を意味するかはさまざまで
たとえば、もっとも低次というか他律的で非主体的なのは
快ー不快で、不快なものを排してわがままにしたいというだけの自由。
そのとき、自らの由としての自由は、
快不快原理だけでみずからを規定することになる。

孔子のいうような「心の欲する所に従って、矩を超えず」というように
自律的、主体的でありながら、「道徳法則に合うような生き方」として
自由をとらえるというのは、上記の引用でいえば「必然の自由」。
孔子にしてもこういうのが成り立つのは70歳といっているくらいで
孔子のような人が70歳なのだから普通はまず困難な自由といえばいえる。
「道徳法則」というのも実際のところよくわからないもので
ぼくのようなひねくれ者は、
たちまちその「必然」の行方を見失ってしまうことになる。
とはいえ、ここで重要なのは、最初の他律的で非主体的なあり方から、
エゴイスティックな自我のありかたを少しでも克服し、
自律的、主体的なあり方をする方向に向かう必要性というのは
少なくとも理解できるところではある。

しかし、その際の「自由」というのも、
あまりに自律的、主体的であるがゆえに、
みずからをある意味過信しすぎることがあるのはなんとなくわかる。
人はそんなにすべてを意識できるわけではないし、
意識できないものをどうするかということも含めて
いろいろ考えていく必要があるといえばいえる。
それを「偶然」という表現でとらえるかどうかは別として
「自由」をそういうものをふくんだかたちでとらえていくことは
とても重要なことだろうと思う。

ちょうどそういうことを考えていたところ
◎野内良三『偶然を生きる思想/「日本の情」と「西洋の理」』
 (NHKブックス1118/2008.8.30発行)
という本がでて、
「原理・原則(必然性)の名のもとに偶然的なものを拒否し、
囲い込んでしまうことは、自分の生きている世界を制限することである」
というもっともなことが書かれてあった。
「必然と偶然の関係をどのように考えるかによって、人生(世界)は
その様相を大きく変える」というのである。
そして、その判断にあたっては、次の三つの視点が重要になるという。
この三つの視点はぼくも常々ガイドにしていて、
以前それについてノートに書いたこともあったと思う。

1)短いスパンで見るか、長いスパンで見るか
2)微視的視点から見るか、巨視的視点から見るか
3)部分を指向して見るか、全体を指向して見るか

少なくとも自由について見ていくためには
この三つの視点は不可欠になるだろうし、
さらに、自己をどのように把握するかということによっても
自由というのはその幅と深さを変えていくことになるのは確かだろう。
だから、今欲しいものを求めるだけのような快ー不快原理の自由は
そのレベルで自分をとらえているわけだし、
「道徳法則」を欲する人の自由はそのレベルで自分を位置づけることになる。
そして、たとえばみずからの影の部分や世界の影の部分さえもとらえようとし
そのなかでの自由へとみずからを展開させていくこともまたできるわけである。
とはいえ、まず重要なのは、出発点として、
小さなあり方ではあっても、ある種の主体性を身につけるということで、
それがなくては、「偶然」を孕んだ自由に向かうことはできないだろうと思う。