風のトポスノート658

 

失語


2008.8.5

 

   自覚された状態としての失語は、新しい日常のなかで、ながい時間を
  かけてことばを回復して行く過程で、はじめて体験としての失語という
  かたちではじまります。失語そのもののなかに、失語の体験がなく、こ
  とばを回復して行く過程のなかに、はじめて失語の体験があるというこ
  とは、非常に重要なことだと思います。「ああ、自分はあのとき、ほん
  とうにことばをうしなったのだ」という認識は、ことばが取りもどされ
  なければ、ついに起こらないからです。
   ですから、失語のほんとうの苦痛は、ことばが新しくはじまるときに、
  はじまるわけです。ことばを回復すること自体は、けっしてよろこばし
  い過程ではありません。田村隆一の詩に「ことばなんかおぼえるんじゃ
  なかった」ということばがありますが、この痛切な悔恨が、じつはこと
  ばによって行なわれていることに注意してほしいと思います。
  (石原吉郎「失語と沈黙のあいだ」
   『石原吉郎詩文集』講談社文芸文庫 所収 P.138)

「失語そのもののなかに、失語の体験がなく、
ことばを回復して行く過程のなかに、はじめて失語の体験がある」
というのは、「失語」だけではなく、
なにかが決定的に失われてしまった状態においても、
同様であるように思われる。

そして、ある意味、その失われてしまったという状態は、
すべて「失語」状態であるということでもあるだろう。
悲しいことに、ひとは言葉でできていて、
ことばを手放すことによって、体験をも遠ざけることができるのだ。
もちろんそこでいう「ことば」は、表層的な「ことば」ではなく、
人間を深層において形成している「ことば」のことである。

人が何かを体験し得るためには「ことば」が必要であり、
その「ことば」の獲得は多くの場合、非常に困難に満ちている。
その体験が「自覚」を必要とするときには、とくに困難は増す。

逆説的にいえば、なにか体験を深めるのを拒むためには、
「ことば」を獲得してはならないわけである。
「ことば」を獲得さえしなければ、
それは「体験」となることを避けることができる。

しかしひとが、前に進もうとするならば、
「ことば」を獲得することは避けられない。
たとえその「ことば」に、
さまざまな嘘や言い訳をまとわせるとしても、
そして前に進むたびに
その「ことば」が剣のように
血と肉をえぐるものとなるとしても。

ときにひどく疲れきって、
「ことば」がでなくなるときがあるが、
おそらくそのとき、
ぼくは「ことば」を突き放すことで、
なにかの体験を拒もうとしているのかもしれない。

しかし、その拒否は
つねに、そのあと「ことば」を回復せざるをえないときの
ひどい悔恨や苦痛や叫びたいほどの悲しみを倍加させるのだけれど。

ところで、石原吉郎は「詩」をこう定義している。

  詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、
  「沈黙するための」ことばであるといっていい。
  もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、
  このような不幸な機能を、ことばに課したと考え
  ることができる。いわば失語の一歩手前でふみと
  どまろうとする意志が、詩の全体をささえるので
  ある。

現代は、ことばが氾濫し、
ひとときも沈黙がないことを実感することが多い。
読むと、あまりの饒舌に耳を覆いたくなる。
歳を経るとともに感じるのは、
ことばにふれたときに
そのことばが
沈黙がたえられずに垂れ流されただけのものなのか
「失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志」ゆえに
発せられたものなのか、ということである。

饒舌は失語とは対極にあるように見えて、
その実、失語にさえ到ることのできない病なのかもしれない。
失語することで、ひとはことばを回復する道を歩む可能性を得るが
そうでない場合、ひとはことばを獲得することができないのだから。