風のトポスノート657

 

グノーシスと精神科学


2008.7.8

 

シュタイナーの『人智学的指導原則』のなかにある
「人智学はグノーシスの改新ではありえない」
ということがずっと気になっていて、
この半年ほどグノーシスやそれに関連したことについて
あらためていろいろ調べてみたりしている。

つまり、ぼくにとって、
グノーシス的なものは
共感できるものでもあるが
同時にそれではいけないという警鐘でもあるということ。

グノーシス主義を網羅的にとらえることは困難だし、
キリスト教的グノーシス、非キリスト教的グノーシスだとか
さまざまな古代におけるそうした「グノーシス的」とされるものの
それぞれにすべて共通するものを検討していくというのも難しく、
そういうことに時間を割く気もないので、
それを大まかな世界観というか
認識の方向性としてとらえようと思うが、
それは、基本的に物質と霊の二元論であり、
グノーシス(認識)によって真の神に到達できるという思想。
世界観としては、「反宇宙的二元論」であって、
この地上世界は悪の神、偽の神である
デミウルゴスがつくった「悪の宇宙」であって、
「真の神」に到達するためには、
そうした地上的なものにとらわれないようにしなければならない、
というような認識。

ぼくがはじめてグノーシスを意識したのは、
ナグ・ハマディ文書にあった「トマス福音書」について
紹介された荒井献の『隠されたイエス/トマスによる福音書』
(福音書のイエス・キリスト5/昭和59年 講談社)だったが、
その頃は、キリスト教について今以上にまったくの無知だったし、
ほかの福音書とどう違うのかさえわからずにいた。
30年近く経ってようやくぼくのなかで、
グノーシス的だといわれてきたトマス福音書が
グノーシス的だといっても必ずしもそうではなく、
「反宇宙的二元論」ではない
というのもようやく理解できるようになった。
しかしぼくのなかでは、やはり、
輪廻の軛を去って解脱をめざそうとし、
世界を実体ではなく関係性の網の目としての縁起としてとらえる
仏教との親近性が強いのではないかということをあらためて思っている。
つまり、仏教が必ずしも二元論的ではないように、
「トマス福音書」の描くイエスも必ずしも二元論的ではないということ。

ちょうど、『奇跡のコース』に関連したかたちで、
「トマス福音書」のトマスの転生したパーソナリティが
その「トマス福音書」で伝えようとしたイエスの教えについて
述べている、ゲイリー・R・レナードの『神の使者』(原題:宇宙
の消滅)、
『不死というあなたの真実』(河出書房新社/2007/2008)を
面白く読んで、そこらへんのことがあらためてよく見えてきたとこ
ろがある。
なんと、新刊の『不死というあなたの真実』には、
編集される前のトマスが伝えるイエスの福音である
オリジナルの「トマス福音書」が掲載されている。
この著書を信じる、信じないは別としても、
内容的にもかなり説得的であると少なくともぼくは考えている。

この「トマス福音書」が
グノーシス的でありながらも、
グノーシス主義のように二元論的でも
悪の神を立てたりもしないのは、
その基本的な認識に「世界はない」ということがあるからである。

仏教でも、世界はマーヤであるとし、
そこから「解脱」することを目的とするが、
仏教とこの『奇跡のコース』もしくは「トマス福音書」の違いは、
やはり「愛」のとらえかた、つまり
「赦し」を全面にだしていることだろう。
しかし、キリスト教がグノーシス的なものをひどく拒否し
肉体や世界にむしろこだわったところとは大きく異なっている。

「世界はない」というと
おっと、そこまでいうか!だけれど
世界観として「一元論」的な認識に基づくならば、
今あるこの、時間、空間によって展開している「世界」は
本来的には存在しないということにならざるをえない。
(しかし、ある意味この「世界」は、輪廻転生も含め、
マーヤとして展開しているわけである)

そして、現在自分がそこにいると思っている「世界」は、
そしてその「現実」だと思っているすべては、
自分がすべて責任を負っているというか、
自分に無関係に展開しているわけではないのである。
ある意味、この自分がすべて展開させているととらえることもできる。

「赦し」というのも、
「あなたを許してあげよう」とかいうのではなく、
「世界はない」のだから、
すべては自分の責としてとらえるということである。
つまり、「赦し」は自分への「赦し」にほかならないわけである。

その「赦し」を徹底させるということは、
このマーヤにほかならない世界のなかでの
みずからが展開させた輪廻転生の環から逃れる、
つまりその循環を必要としなくなるということである。
仏教的にいえば、
生老病死という四苦を含む四苦八苦である
世界そのものを超越するということになるが、
そうした四苦八苦の「世界を赦す」ということで
真の現実に目覚めるということになる。

ここでぼくにとって問題になるのは
「人智学はグノーシスの改新ではありえない」
ということになる。
人智学は、「世界はない」という極端な発想をもたない。
むしろ、今私たちの存在しているこの「世界」そのものの展開を
詳細に検討していく方向性をとる。
しかも、神智学やそのほかのキリスト教的秘教などと異なり、
現在の「学」を拡張する方向性をとろうとする。
それを世界=宇宙の進化ということを基軸に、
むしろ(広義の意味でだが)時間による展開を詳細に検討し
そのなかで私たちそのものの生と死の展開を
進化的に位置づけていこうとする。
「世界はない」でもなく
「世界は悪である」でもなく
現在私たちの生きて活動している「現実」を
どのようなビジョンのもとでとらえる必要があるのか、
それを宇宙進化的なプロセスにおいてとらえようとする。

その点において、「トマス福音書」は
グノーシス主義ではないけれど、
(ある意味本来の、徹底したグノーシスなのかもしれないが)
やはり、信仰的・宗教的な傾向性を否応なくもってしまうことになる。
既成の宗教や権威や団体的な側面をむしろ否定するとしても、
逆にある種の絶対性をそこに要求してしまうことにもなりかねない。
とはいえ、宗教のもつネガティブな破壊性はもちえないのは確かだし、
ある種の「行」のもつ生理学的危険性とも無縁なのだけれど。

やはり、たとえ現在、こうして展開している世界が、
ある種、パソコン上のメモリ空間での一大遊戯のような
究極の本来としては存在しない遊戯であるとしても、
その「世界」がどのように展開しているのかを検討しながら、
そのなかでの生と死を、そのプロセスを認識していくことが
もっとも重要なのだという考えは外せないと思っている。
その意味で、ぼくとしては、現代において必要不可欠な視点として
これからもシュタイナーの精神科学的アプローチを
中心に置きたいという思いは変わらない。
このからだや世界というプロセスへの視線をおざなりにしないという意味でも。