風のトポスノート655

 

空白の器としての問い


2008.6.30

 

   空白を資源とすることで、様々なコミュニケーションや創造的な意志の
  疎通ができることについて述べてきた。空白がそこに存在することで、そ
  れを補完しようと頭脳が運動する。そこにコミュニケーションや思考が発
  生するのである。さらに言えば、「考える」あるいは、発想するという脳
  の営みそのものも、「思う」という能動性によってゼロから構築的に作ら
  れるのではなく、「問い」に無意識に反応することで成立するのではない
  かと僕は考えている。「我思う」の前に、目に見えない「問い」を置く。
  問いとは脳の中に何らかの拍子に生まれる空白である。(・・・)脳は、
  差し出された小さな空の器に、反射的に「答」を入れるという傾向を持っ
  ている。思考や発想は、「空白の器」が媒介しているのである。
  (・・・)
   独創性とはエンプティネスの覚醒力、すなわち問いの質のことである。
  独創的な問いこそが「表現」と呼ぶにふさわしく、そこに限定された答は
  必要ない。それは既に無数の答を蔵しているのであるから。
  (原研哉『白』中央公論新社2008.5.30.発行 /P.62-65)

問いには無数の答が蔵されている。
原因には無数の結果が潜在している。

私たちの可能性と不可能性は
問うことの可能性と不可能性であり、
「思い」を発することの可能性と不可能性である。

すべてがプログラミングされているとすれば
そこには問いのための空白は存在しない。
そこにあるのは答や結果と直結するためのインプットだけである。

私たちは、問いの質を高めるために
既知をあえて未知のものとしてとらえかえす。
そのために無数の既存の答を消し去り、
それまで問うことさえできずにいた地点を探す。

その場所を探すための地図は存在しない。
それ以前に、自分が今までいると思い込んでいた場所さえも
その固定的な地図からは取り去らなければならない。

私は今どこにいるのか。
それを問うことからはじめなければならない。
さらにいえば、私はどこにいるのかを
みずからが定めなければならない。
それを定めたとき、そこから新たな地図が描き変えられていく。

そこから無数の答えは導出されていく。
しかし、その答えそのものはすでに価値をもたないだろう。
それは問いをもったときにすでに与えられたものにすぎないのだから。

そして問いの旅が新たに続いていく。