風のトポスノート654

 

未知化


2008.6.30

 

   ある対象について深く考えることによって、その対象が、まるで初めて
  見るかのような新鮮さを取り戻すことがある。書き慣れた文字も、反復し
  て書くうちに、不思議な造形物のように感じられてくることがある。その
  刹那、僕らは異国人がはじめて日本の文字に触れた時の新鮮さと同じもの
  を感じ取っているはずだ。
  (・・・)
   未知化とはそういう現象である。既知化し惰性化した知識を、根源の方
  に戻して感じ直してみることで、僕らは新鮮にものごとを認識し直すこと
  ができる。
  (・・・)
   僕らは世界に対しては永久に無知である。そしてそれでいいのだ。世界
  のリアリティに無限におののき続けられる感受性を創造性と呼ぶのだから。
  (原研哉『白』中央公論新社2008.5.30.発行 /P.75-46)

学ぶことにも、往還がある。
なんらかの知識として何かを学ぶのが「往」きであり。
学んだことをもう一度真っ白にして、
学び直そうとするというのが「還」りである。
「往」きは、既知化であり、「還」りが、未知化である。

もちろんこの往還は、一度で終わるものではない。
何度でもこの往還が行なわれなければ、そこで学ぶことは死滅する。
始末に悪いことに、死滅したものこそが、
まるでゾンビのようにそこら中を闊歩するのが世の常である。

とはいえ、食べ物とするためには、
多くの場合、さまざまなものを一度殺さなければならない。
図式化や概念化、定義といったものも、その殺すことにほかならない。
そうした必要悪を必要悪として理解しておく必要がある。

こうして書かれている文字もいちど死んだものである。
死んだものを蘇らせるのが、読むということである。
文字/文章の多くは蘇らせる価値のないものが多いが、
(たぶんこうして書いている文章はあまりその価値はないかもしれないが)
蘇らせる価値のあるものを蘇らせる能力が読解能力である。

人はなにからでも学ぶことができる。
どんなものもそこに夥しい未知を有している。
どれだけ既知化から未知化を導き出せるかということが
価値として認められる世になればと思うが、
世の中は、既知化の集積を価値としてあがめる方向にあるように見える。
そうでなければ、「権威」を固定化できないからだ。

世界がその人にとってどうあるか、どのように生きるかは、
その「権威」の置き方によるのかもしれない。
だれにとっても一度はなんらかの「権威」が凝固剤のように必要なところはある
が、
そのまま放置してしまうと世界はそのまま固まったまま死んでしまう。

既知化と未知化の往還を繰り返すこと。
そのことで世界も往還を繰り返すことが可能となる。
なぜ世界はあるのか。
なぜ私はあるのか。
いや、世界があるというのは真実か。
私があるというのは真実か・・・。
そういう問いもまた何度も何度も往還を繰り返して尽きることがない。