糸井 最近、僕が発見した
ものすごい考え方があるんです。
「テングザルのおもしろさのポイントは
なんだかわかるか?」
という問いかけなんですけどね。
・・・
それはね、「目」なんです。
みんなは当然、鼻だと思ってるんです。
でもね、鼻は目につきやすいだけでね、
テングザルを何度見てもおもしろいのは、
あのでっかい鼻をしたテングザルが、
「オレの鼻、おもしろいだろ?」
っていう目をしてないからなんですよ。
・・・
このテングザル理論は、もとを正せば、
吉本隆明さんのパクリなんです。
といっても吉本さんはテングザルのことを
言ったわけじゃなくて、
「表現のいちばんの基本形は沈黙だ」と。
ことばの枝葉を生み出す幹には
沈黙があるんだとおっしゃったんです。
僕はそれを聞いたときに息を飲んで、
いろんなことを整理し直さなくちゃいけないな
と思ったんですが、その帰り道で、
この「テングザル理論」を思いついたんです。
(ほぼ日 三谷幸喜の不安「駄目な僕。」2008-6-17
糸井重里のインタビュー より
http://www.1101.com/mitani_koki/index.html )
この「テングザル理論」を読んで、
それとは少し視点はずれてしまうが、
さらにこんなことを考えた。
何が語られているか、ではなく、何が語られていないか。
何が表現されているか、ではなく、何が表現されていないか。
または、何かが語られているとき、
その語られている対象ではないものがそこから喚起される。
何かが表現されているとき、
その表現されているものではないものがそこから喚起される。
ドーナツの穴は、ドーナツではないが、ドーナツである。
私は何を見ているのか。
音楽の間は、音楽ではないが、音楽である。
私は何を聞いているのか。
私は何を見、何を見ていないのか。
私は何を聞き、何を聞いていないのか。
そして、私が何を見ていないのかを
どのようにして知ることができるのか、
私が何を聞いていないのかを
どのようにして知ることができるのか。
あるものがあるものとして現われるということは、
あるものではないものがそこにたしかにありながら、
あるものではないものが見えなくなることではないか。
「これはパイプではない」(マグリット)
が、パイプでないそれは果たして何なのか。
たしかにパイプとして表象しやすいかもしれないが、
それは絵である。
写真に撮ったパイプであったとしてもそれは
パイプではないということはできる。
しかし、私が見てないもの、聞いていないものは
私のキャンパスであり音楽の間のように
私を包み込み絶えず微笑んでいる。
私の沈黙もまた。
それを語らないとき
私はそれを知っている。
それを語ろうとしたとき
私はそれを知らない。 |