風のトポスノート653

 

テングザル理論から


2008.6.17

 

糸井 最近、僕が発見した
   ものすごい考え方があるんです。
   「テングザルのおもしろさのポイントは
   なんだかわかるか?」
   という問いかけなんですけどね。
   ・・・
   それはね、「目」なんです。
   みんなは当然、鼻だと思ってるんです。
   でもね、鼻は目につきやすいだけでね、
   テングザルを何度見てもおもしろいのは、
   あのでっかい鼻をしたテングザルが、
   「オレの鼻、おもしろいだろ?」
   っていう目をしてないからなんですよ。
   ・・・
   このテングザル理論は、もとを正せば、
   吉本隆明さんのパクリなんです。
   といっても吉本さんはテングザルのことを
   言ったわけじゃなくて、
   「表現のいちばんの基本形は沈黙だ」と。
   ことばの枝葉を生み出す幹には
   沈黙があるんだとおっしゃったんです。
   僕はそれを聞いたときに息を飲んで、
   いろんなことを整理し直さなくちゃいけないな
   と思ったんですが、その帰り道で、
   この「テングザル理論」を思いついたんです。
   (ほぼ日 三谷幸喜の不安「駄目な僕。」2008-6-17
    糸井重里のインタビュー より
    http://www.1101.com/mitani_koki/index.html )

この「テングザル理論」を読んで、
それとは少し視点はずれてしまうが、
さらにこんなことを考えた。

何が語られているか、ではなく、何が語られていないか。
何が表現されているか、ではなく、何が表現されていないか。

または、何かが語られているとき、
その語られている対象ではないものがそこから喚起される。
何かが表現されているとき、
その表現されているものではないものがそこから喚起される。

ドーナツの穴は、ドーナツではないが、ドーナツである。
私は何を見ているのか。
音楽の間は、音楽ではないが、音楽である。
私は何を聞いているのか。

私は何を見、何を見ていないのか。
私は何を聞き、何を聞いていないのか。

そして、私が何を見ていないのかを
どのようにして知ることができるのか、
私が何を聞いていないのかを
どのようにして知ることができるのか。

あるものがあるものとして現われるということは、
あるものではないものがそこにたしかにありながら、
あるものではないものが見えなくなることではないか。

「これはパイプではない」(マグリット)
が、パイプでないそれは果たして何なのか。
たしかにパイプとして表象しやすいかもしれないが、
それは絵である。
写真に撮ったパイプであったとしてもそれは
パイプではないということはできる。

しかし、私が見てないもの、聞いていないものは
私のキャンパスであり音楽の間のように
私を包み込み絶えず微笑んでいる。
私の沈黙もまた。

それを語らないとき
私はそれを知っている。
それを語ろうとしたとき
私はそれを知らない。