風のトポスノート652

 

観察と世界


2008.6.11

 

ポール・オースターの『ムーン・パレス』に、
盲目で車椅子の老人から散歩のとき
見えるものを報告するよう求められるシーンがある。
主人公は自分がいかにまわりにあるものをしっかり見ることも
またそれを表現することもできないかを痛感する。

それを読んだからというのではとくにないが、
自分はいったい何を見ているのか。
そしてそれを的確に人に伝えることが
果たしてできるのだろうか。
そんなことを考え始めると、途方にくれてしまう。

目の前の樹のことを自分は知っているのか。
名前さえろくにわからないではないか。
名前がわかったとしてもそれでどうだというのか。
その樹の存在を自分はどう理解しとらえているのだろうか。
樹に飛び交う鳥についても同様である。
少し前までその名前さえ知らずにいたではないか。

目に見えるものでさえそうなのだから
見えないものなどは言うまでもない。
言葉はそれをいかに論理的に使用するとしても、
ほとんど比喩の総体のようなものだから
それこそ無数の表現のなかから選び出す言葉やその組み合わせが
相手に伝わるようにするのは、
またその比喩の向こう側にある見えないものを
ひとと共有しようとする
シャドーボクシングのようなものかもしれない。

言葉をかなり有効にかつ的確に使用することのできる人は確かにいる。
しっかりと観察しそれを人に伝えるための適切な技術ももっている。
論理的なありようはもちろん、感性的に効果的な表現さえできる。
そしてかなり高度な思考力まで兼ね備えている。
そういう人にしたところで(とはいえそれさえかなり稀有な能力なのだが)
その人が存在している世界観の枠組みから自由ではありえない。

哲学は、蠅に蠅取り壺から出るようさせるものだということでもあるが、
私たちが、自分のとらわれている世界からは出ることは困難なことなのだ。
少なくともそのことだけは意識するようにしておければ、
今は自分では気づいていない檻のなかにいるのかもしれない
ということだけは認めることができる。
そして、その檻のことを気づくことのできるような
さまざまな試みに出会う可能性に向かって開かれることができる。

しかしそのためには、
少なくとも今自分が直面している世界を
しっかり観察する試みを避けてはならないだろう。
おそらく自分が気づけずにいる世界の可能性も
そんな観察から開けてくることもあるはずなのだ。
もちろん、固定的な自分を補強するための観察であっては意味がない。
いかに自分の認識力が欠けているかがそこでは前提になるのだ。
そうすると、たとえば、人が「死」などに対しても
いかに「観察」を怠り、いわゆる「常識」に埋もれているかが
わずかなりとも見えてくることになる。