風のトポスノート651

 

何か新しいこと


2008.5.30

 

   演奏は、何も変わったことをするのが大事なのではない。
  私は、このところ、演奏家が作品に創造的に関与してくる
  ようなひき方にふれることが多いけれど、それは、つきつ
  めたところ、それをきくことによって、「何か新しいこと」
  に接したいと思うからでもあった。ムターの演奏も、自己
  顕示欲の塊みたいなひき方と、その際のヴァイオリンの音
  の豊満な美しさで、私をびっくりさせ、その点で、そこに
  は未聞のものがあった。でも、それはハーン盤で受けた不
  気 味で衝撃的な響きによる感動に比べたら、なんとも形容
  し がたい「ありきたりの古くさい新しさ」でしかない。
   古い曲も新しい感動を生む機縁になりうる。
   古い音楽について書くことも、そうだ。
  (吉田秀和「『古い音楽』の中の『新しさ』」
   「之を楽しむに如かず」 レコード芸術2008/6月号より)

繰り返し繰り返しきく音楽があり、
まだきいたことのないものを求めてきく音楽がある。
音楽にかぎらず、繰り返しおこなわれることがあり、
あたらしく試みられることがある。

どちらにしても、
たとえおなじようなことが繰り返されたとしても
そこにいつも「何か新しいこと」があるならば
それらの体験は常に新しい。

繰り返される体験は、
繰り返されるたびごとに深まっていき、
あらたに得られる体験は
世界をひろげてくれる。

とはいえ、深まらない繰り返しは倦怠をうみ、
ただの「何か変わったこと」は、世界をひろげてはくれない。

哲学のはじまりは驚きだといったのはアリストテレス。
「何か新しいこと」は私を驚かせる。
驚きは世界を展開させる原動力になる。
驚きがあるあいだは世界は展開していく。
驚きには、内的な驚きと外的な驚きがあり、
それは両輪の輪になっていて
どちらかが欠けてもうまく展開することはできなくなる。
たとえば、「何か新しいこと」はみずからの内で深められないかぎり
魂の養分となることはできない。
消化できない「何か新しいこと」は
消化不良を起こしたりもする。

解脱をめざした釈迦も
やがて「それでも世界は美しい」といったとか。
「永遠」においては、「何か新しいこと」は意味を持ち得ないだろうが、
それでも、たとえマーヤにせよ、
この地上の世界において存在するということは、
つまり、この地上を(現場のありようはどうあれ)「よし」とするということは、
「それでも世界は美しい」ということができるということにほかならない。

「何か新しいこと」はその「美しさ」と関係しているような気がする。
世界への体験を内的に深め、
さらにそれを世界に展開していく循環とでもいおうか。
一瞬一瞬は本来常に新しい体験の積み重ねであるのだろう。
それに気づくことができるかどうか。
気づくことができたとき、私たちは深く満たされるはずである。
おそらくそのとき「何か新しいこと」は、「美」へと変容している。