風のトポスノート650

 

やさしさのこわさ


2008.5.29

 

   たしかにやさしさ社会のこわさはあります。また、殺人や強盗な
  どの凶悪犯罪、家庭内暴力や幼児虐待、電車などの公共空間での暴
  力が、毎日のように起きています。
   けれども、いまほどやさしくない社会にも、独自のこわさがある
  はずです。また、現在のやさしさ社会で起きている暴力の多くは個
  人的な暴力か、少人数による暴力です。戦争などの大規模な暴力で
  はありません。
   もちろん、個人的な暴力なら許されるとは言えないでしょう。し
  かし、せめて他国と戦争してもいないし、内戦状態になってもいま
  せん。
   にもかかわらず、メディアでは、現代日本社会がまるで最悪の社
  会であるかのように語られます。“いっさいの犯罪、暴力、不幸、
  不安は、ほんの少しもあってはならない!”と叫びます。それらの
  発生を予防することやセキュリティが最優先課題であるかのように
  なってきました。その結果、たとえば、監視カメラをあちこちに設
  置したり、24時間365日の警備体制をとる街をつくりはじめて
  います。
   予防的やさしさは、人間関係の非公式ルールであることを超えて、
  社会全体で達成されようとしています。しかも、パーフェクトにや
  さしい社会を目指していると思われます。
   もし、犯罪も暴力も完璧になくしたいなら、人間を家畜にしてし
  まえばいいのです。それぞれが個別のカゴにいれられ、接触するこ
  ともなく、一日中エサだけもらって経済的利益を生むブロイラーの
  みたいになれば、犯罪も暴力も傷つくこともない、パーフェクトに
  やさしい社会が実現するでしょう。じっさい、そうなりつつあるか
  もしれません。
  (森真一『ほんとはこわい「やさしさ社会」』
   ちくまプリマー新書074 P.22-24/P.147-150)

「あなたのやさしさがこわかった」と歌うのは神田川。
世の中ぜんぶが「やさしさ」を要求するようになったのが現代日本。
戦時中のように世の中ぜんぶがこわくなるのは論外だけれど、
挙国一致体制、帝国婦人会・・・とかいう感じと
現代のあらゆるところに「やさしさ」を強要する感じとは
どこか似ているような気がする。

著者は、そうした現代的なやさしさを
「やさしいきびしさ」や「予防としてのやさしさ」というふうに呼んでいる。
つまり、いちどつけてしまった傷は取り返しがつかないから
傷がつかないように、傷がつかないように、と配慮を尽くす。
それは、子どもが怪我をしてはたいへんだから、
怪我のもとになりそうなものは
考えられる限り取り除いておこうというようなもの。

蛇がでないようにすべて草を刈り取ってコンクリートで固める。
遊具などにしても絶対に傷がつかないようなものしか与えない。
その他、あらゆる「害」になりそうなものを
環境としてかぎりなく排除していく。
あらゆる点で、そういう環境をつくろうとする共同体。
「人にやさしい」そして「環境にやさしい」という言葉が
挙国一致的に言挙げされる。

水清くして魚住まず、というような社会状況のなかでは、
「きびしいやさしさ」を強要されながら
それでもなんとかそのなかで生きようとする
かぎりなくたくましい帝国夫人的なひとたちと
どうしてもそんな「清さ」のなかでは
生きられない人たちがでてしまうのは仕方ない。
「きびしいやさしさ」を強要されるような現代の息苦しさと
凶悪犯罪の発生というのは、おそらくコインの裏表のように見えてしまうのだ。
それは、たてまえは、「やさしさ」「平等」でありながら、
実のところ「勝ち」「負け」に着地してしまうような
まさに、裏ー表のある社会のあり方の結果なのだろう。

仕事をしていても思うのだけれど、
なんだか毎年毎年、息苦しくなっているように感じるのは、
個人情報保護だとかセキュリティだとかいうたてまえと
過酷さを増す経済環境などがますます乖離してきているからだろうと思う。
背負う荷物はどんどん重くなっていくのに、
その足腰を鍛えるために必要な「きびしさ」のほうは
見ないように、まるで存在しないようにして、生きなければならない。

おそらく、やさしくなるためには、
かぎりなく強くならなければならない。
そのためには、たくさん傷つくかもしれないけれど、
そこから何度もよみがえってこなくてはいけない。
だから、傷ついたことのない人どうしが、
お互いに強要しあうやさしさというのは、やはり、とてもこわい。
拒絶された「悪」「闇」はどんどん地下にもぐっていって
どこか弱いところでどーんと噴火してしまう。
それが、現代のさまざまな不可解な事件のひとつの原因なのかもしれない。