風のトポスノート649

 

暗闇と浅薄さ


2008.5.22

 

   現在、モダン、およびポストモダンの世界にあって、「暗闇」が世界を 覆っている
 という見方がある。しかし、わたしはそうは思わない。暗闇、深み、そう したものの
  なかには、常にわたしたちを癒す力をもった真実が宿っているからであ る。真、善、
  美を脅かすのは、実は暗闇の力ではない。むしろ浅薄さであり、それが皮 肉にも自分
  たちを暗いもの、深いものとして宣伝するのである。この、いたるところ に見られる、
  恐れを知らない傲慢な浅薄さが、現代の本当の危険、現代の脅威であり、 にもかかわ
  らず、いたるところで、それら浅薄さに満ちたものたちは自分たちを救済 者と呼べと
  言っている。
  (ケン・ウィルバー『存在することのシンプルな感覚』春秋社/P.292)

安易な自殺や不可解なまでの痛ましい事件が起こる。
なぜなのだろうかと考える。
マスコミや政治家のあいかわらずの言動、2チャンネル的なディスクール。
私たちの私たちによる私たちのつくりだす、現代のさまざまな自滅的な絵図。
なぜなのだろうかと考える。

それを、すでに死語にさえなっている
「世紀末」的な「暗闇」だと安易にいってみることもできるだろうが、
おそらく、多くはむしろ「暗闇」を見ることを避けている結果なのではないだろうか。

自分が何かを理解できないときに取り得る態度は、
自分の認識範囲を拡大して理解に向かう方向と
自分の認識範囲を閉じ、それ以外を受け入れない方向である。
「暗闇」は前者であり、「浅薄さ」は後者である。

自分の認識範囲を狭めれば狭めるほど、
その世界観もそれに対応して狭くなり、
その許容範囲も狭くなるのは自明のことで、
狭くなったときに、そこから「世界」の可能性が排除されることで、
自殺や他者攻撃や自らを省みない無責任な言動などは容易に起こり、
ときにその狭い世界を現実の世界に置き換えようとするような
狂気もまた起こり得るのだろう。

暗闇の世界には逆説的に光の世界が救済として可能になるが、
「浅薄さ」の世界にそんな可能性を見出すことはできないだろう。
自分の井戸をずっと掘り下げてそこでうずくまりながら
そこでなにかを求めているのであれば
そこに梯子をかけることも
またみずからがそれに代わるものをつくりだすことも可能だが、
たんに、小さな溝を掘りそれを世界だと思いこみ
偽の天上天下唯我独尊を喧伝してみたところで
そこにはいかなる救済もまた自己救済も可能になることはない。

悪人正機と同様なテーマがそこには存在する。
「浅薄さ」の世界に「正機」はなく、救いもまたないだろう。
そしてぼくはあらためてみずからの日々の「浅薄さ」に気づき愕然とする。