風のトポスノート648

 

論理と感情


2008.4.8

 

   私はしおんのような女の子を、とてもよく知っているような
  気がするし、そんな子、絶対にいないわ、とも思います。どち
  らの感情も、本当だし、嘘です。そしてまた、恥ずかしくなり
  ます。本当だし、嘘、だなんて、こんな不思議な気持ちになる
  のは、久しぶりのことです!小さな子供のとき以来?それとも、
  まったく、経験したことの無い気持ち?
   いいえ、私はすぐに思い出します。この感情は、とても馴染
  み深いものです。
   私はよく、恋人に言うのです。「本当。でも、嘘」。
   大笑いしながら、ちっとも楽しくないのだと訴えたり、泣い
  ている私を見て、一緒に笑ってくれとせがむ。「会いたくない
  から、会いたい」「あっちへ行って、私から離れないで」、そ
  う言い、困っている彼の顔を、世界で一番愛しいと強く思って、
  そして、世界で一番大嫌いだと、叫ぶ。私はそういう感情とぺ
  たりと寄りそうようにして、日々を過ごしているのです。
  (西佳奈子/江國香織『夕闇のざくろ』(ポプラ文庫)解説より)

感情にスクエアな論理のものさしをあててしまうと
はてしない困惑のなかで途方に暮れてしまう。
感情という辞書には矛盾という言葉がないからだ。
仏教のむずかしい論理展開も、
西洋型の論理のものさしでは測れないけれど、
仏教論理でさえ、あの感情の矛盾展開には途方にくれるだけだろう。

なぜ感情の矛盾展開に途方にくれてしまうのか。
もちろん、それを表出しているほうが途方にくれるのではなく
表出されたほうが途方にくれるわけだが、
この場合重要なことは、表出されたほうが
表出するほうに対して何の関心ももっていない場合、
この感情矛盾展開はまったく魔力を失ってしまう。
まあ、関わりにならなければそれで済むわけである。
関わりになりたいと思っている前提があって、
相手の表出する言葉や態度に対して
一貫した意味と論理のようなものを期待するがゆえに、
そこに果てしない困惑、当惑、混乱、カオスが生まれてゆく。

そのカオス的状況が、深い愛情関係のもとにある場合、
表出されたほうは、それが破壊的状況を導かない限りにおいて
その混乱ゆえに、自らのある種アニマ的な無意識の部分を
そこに投影したりもすることで、愛が深められるということにもなる。
しかしそれが限度を超えた場合、小林秀雄の若き頃の状況のように、
そこから逃げ出さざるをえなくなってしまうこともある。
むずかしい限りだが、そこでひとつ学べることがあるとすれば、
感情の二元というのは、思考の二元とは別のありようをしている
ということではないだろうか。

思考の二元とそれに基づく論理を支えに生きているタイプは、
それに矛盾する状況が次々に現われた場合、
ときに発狂してしまうこともあるかもしれない。
しかし、最初からそうした論理を支えにしていないタイプであれば、
そうした状況に対して、論理による反論をしようとはしないぶんだけ
なんとかその閉塞状況を生き延びることができるのではないか。

よくよく観察してみればわかるのだけれど、
人はけっこう好都合にできていて、
自分が論理だと思っていること以外では
どんなにスクエアなまでの論理主義者も
かなりひどい矛盾をなんとも思わないものだ。
逆もありで、ひどく感情矛盾表出型のタイプも、
ある種の状況では、論理を生きていることがあり、
その論理からの矛盾を決して許そうとはしない。
(まあ、それを論理と呼べば、だが)

そういう意味では、論理と感情というのは、
そんなに矛盾するものでもないところが多いようにも思えてくる。
大切なのは、ひとつの論理だけですべてを測ろうとしたり、
ひとつの感情だけですべてに立ち向かおうとしたりしないで、
その状況のなかで使い分けができるようにするということなのだろう。
マルチ・タスクである。
もちろん、それはできるだけ自覚的であるに越したことはない。
フィードバック機能も必要であるということである。
そうすれば、矛盾を楽しさに変えることだってできるわけであって、
世界はそのぶん、豊かな遊戯性を獲得できるように思うのである。