風のトポスノート646

 

禁忌について


2008.2.15

 

内田樹の『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文藝春秋)は、
いつもながら、なかなか面白いテーマがいろいろあって考えさせられる。
ちょうど、「性」のテーマがちらほらあったので、ついでに
「食」に関するちょっとした危うさについてのところを
少し拾っておくことにしたいが、
その前に、日本神話でのことを少し。

オオゲツヒメ(大気都比売神、大宜津)は、
日本神話に登場する神で、穀物や食物の神。
スサノオに食物を与えるが、
オオゲツヒメは鼻や口、尻から食べものを取り出して調理していたのを見て、
怒って、オオゲツヒメを斬り殺してしまう。
すると、オオゲツヒメのの体から、
蚕や稲や粟や小豆や麦大豆が生まれた。

また、日本書紀では、月夜見尊の話になる。
月夜見尊は、天上で天照から保食神(ウケモチ)と対面するよう命を受け、
保食神のもとに赴くが、そこでも、
保食神が口から飯を出したので、月夜見尊が怒って、保食神を殺してしまう。
すると、その死体から牛馬や蚕、稲などが生れる。

「食べ物」とされるものには、
なにやら深い秘密がありそうだというのがこれだけでもにおってくる。
ましてや、穀物ではなく、「肉」の話になるとなおのこと。

では、上記の内田樹の本から、少し。

   「肉の話」は奥が深い。
   日本では屠畜は被差別部落と深くリンクしているので、メディアは
  この問題はできるだけ回避しようとする。先年のハンナンのような食
  肉をめぐる組織的な犯罪が摘発されても、メディアは行政や政治家た
  ちも巻き込んだその構造の解明には消極的である。
   それはPC(ポリティカル・コネクトネス)的な立場からの政治的
  糾弾におびえているだけではない。
   ジャーナリスト自身も気づいていない無意識的な禁忌が作用してい
  るのではないかと私は思う。
   この問題にはなるべく触れないほうがいい。
   みんなが何となくそう思っているのである。
   そして、この「触れずに済むものには、触れないほうがいい」とい
  うのは小市民的な自己防衛ではなく、もっと人類史的に奥の深いもの
  なのではないかと私は思うのである。
   何でも白日の下にあきらかにすればよいというものではない。世の
  中には、そっと触れずにおいておくほうがよいものもある。
  (・・・)
   家畜が食肉に「変換」される工程については、そこで何が起きてい
  るかを、隠蔽するにせよ、神話化するにせよ、「あきらかにしない」
  という点については人類史的に合意が成立している。それは、それを
  あきらかにすることがきわめて危険な「副作用」をもたらすことに私
  たちが無意識のうちに気づいているからである。
  (P.199-204)

人は食べないと生きていけない。
(食べないで生きている人もいるようだが、いまのところそれは例外として)
それは、地上に肉体を持って生きている以上、
自分の外界を殺し、その犠牲のもとに、
自分のなかに取り込んでいくことを余儀なくされる。
それは、先の神話にもみたように、
動物を殺すだけではなく、穀物にしても同様である。

しかしその「食べる」ということには、
ほんとうは深い秘儀がそこには存在しているのだろうが、
それそのものを常に過剰なまでに意識しないでもすむように
そこにはなんらかの「禁忌」が存在する。
そしてその「禁忌」を引き受ける人たちも存在し、
人はそうしたひとを怖れ/畏れ、差別したりもすることになる。

「食」にはいつも「死」のにおいがぷんぷんしている。
実際、食べるということは殺すということと不可分なのである。
殺さなければ人は食べることができない。
おそらく「性」に関してもそれに近い何かがありそうなのだけれど、
現代では、そうした禁忌に類するなにかが
あまりにあっけらかんと白日のもとにさらされているように見えながら
その実、禁忌にするよりももっと深くどこかで隠蔽されているようにも見えてしまう。
なにかを隠すためには、誰の目にも触れているかのようにしたほうが
もっとも隠すことになるということも往々にしてあるのである。
人の「死」も、かつてはある種の禁忌とともに目にしていたが、
今はこれだけ、小説や映画で「死」が垂れ流されているにもかかわらず、
実際は、ほとんどの場合、人の死体に直面することはあまりにも少ないように。