風のトポスノート645

 

当事者意識


2008.2.14

 

   冷静になって考えるとおわかりいただけると思いますが、私たちの社会の
  さまざまなシステムを機能不全に陥らせているのは、この「ちゃんと仕事を
  してくれる人がどこかにいるはずだ」という無根拠な楽観です。
  「誰かがちゃんとシステムを管理してくれうているはずだ(だから、私はや
  らなくてもいい)」という当事者意識の欠如がこの「楽観」をもたらし、そ
  れがシステムの構造的な破綻を呼び寄せています。
   当事者意識がない人の制度的改善努力は「文句をつけること」に限定され
  ます。
   ご本人は「よいこと」をしているつもりでいます。市民としては面倒な義
  務を果たしていると思っているかもしれません。文句さえつけていれば、誰
  かが何とかしてくれるはずなんですから。
  (・・・)
   批判を受けたときに、「どうもすみません。何とかします」ということを
  自分の本務だと思っている人が一定数いないと、社会秩序は保ちません。批
  判が生産的であるためには、批判をまっすぐ受け止めて「ごめんなさい。何
  とかします」という人がいなければならない、ということについては譲るわ
  けにはゆきません。
   批判者がその語の真の意味で批判的であり続けられるためには、「批判を
  受け止める人」たちをきちんと再生産する制度を担保しておかなければなら
  ない。批判する方たちだって、社会全員が批判する人間ばかりになったら張
  り合いがないでしょう(その前に批判される当の社会が批判者もろともに消
  滅しているでしょうけれど)。
  (内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』
   文藝春秋/2008.1.30.発行P.13-17)

「なぜ自分がやらなくちゃいけないんだ」は、
「誰かがやってくれるだろう」と思っているということだ。
それは、批判すること(というより文句をつけるというレベルのことだが)を
自分の仕事(まさにbusiness)だと思っている人の意識で、
指摘すれば自分がしなくてもまさに誰かがやってくれると思っているのである。

自由な人というのは、
自分に自分で批判を加えられる人のことである。
「おまえ(自分)がやれ」
「はい、わたしがやります」
というふうに、自分で自分に命じられるということ。
それをシュタイナー風に言えば「倫理的想像力」ともいうことができる。

そして、その「自分」を
狭いこの自分だけに限定しないで
どこまで拡げることができたかということが
ある意味「悟り」ということでもあるのだろう。
地球全体を自分の責任として引き受けたのがキリストであるように。

そして、人の意識のレベルというのも
そうしたことをひとつの尺度として見ることができる。
「他者」に対する責任というときの
その「他者」をどのようにとらえるかということも
そのことに関わってくる。

しかし、その際、何でも自分のせいにする、というような
「自虐」と混同してしまうと話はややこしくなる。
自分を愛するということがその根底になければらない。
自分を愛することができないひとが
他者を愛することができるはずがないからである。
「隣人を汝自身のように愛しなさい」というとき
自分を愛することができない人が
「隣人」を愛することができないのは言うまでもないことだからだ。
自虐の人がそのように「隣人」を同じように遇するとしたら事は悲惨である。
そこに、「自我」が深く関わらなければならない。

ブログが炎上するというようなよくある光景や
2チャンネルのような文句の数珠つなぎが成立してしまうのは
おそらく、そこに関わるひとたちが
「隣人」を、自分が自分に遇しているように扱っているからなのだろう。
自分の不幸を批判・文句という形に投影しているということである。

人の意識のあり方、存在のあり方というのは、
その人そのものを超えることはできない。
その人の言動はまさにその人そのものであって
そのひとがそのことでその言動を超えた人であることはできない。
妄想することはできるが(文句をいうことで自分が偉いと錯覚すること)
妄想は妄想以外のなにものでもない。
バーチャルな世界を現実にそのまま移植することはできないのである。

自分は当事者であること。
その自分をどの範囲で「自己認識」しているか。
そして「当事者」である、当にその「事」をどのようにとらえているか。
それそのものが自分であるということを思えば、
等身大の自分が見えてくるのは間違いない。
その等身大の自分が見えないとき、
人はとんでもない錯誤に足を踏み入れることになるだろうし、
等身大の自分を少しでも実際に大きくしようと思わなければ、
「隣人」もそれだけの大きさでしかとらえることはできない。