風のトポスノート644

 

近代論から神秘学へ


2008.1.6

 

   本書が主題とするのはただ一つ、「近代」とは一体なにか、ということである。
   近代とはどのような本質を持ち、現在においてどのような帰結をもたらそうと
  しているのか。そのような巨大な問いを立て、それに十全な答えを与えられると
  思うこと。それは無謀であり、誇大妄想に近いと判断されるかもしれない。歴史
  的、経済的、政治的……設問の数が増えれば増えるほど、おそらく何通りもの解
  答が用意され、それを理解する道筋は錯綜し、複雑をきわめるであろう。しかし
  逆に、そのような混乱ゆえに、またそのような混乱のなかからこそ、あらゆる領
  域に共通する大きな一つの流れだけは抽出できると思うのである。それは世界に
  一元化の道が開かれた時、そこから「近代」がはじまったという事実である。
  (・・・)
   本書は、この列島において穿たれた近代という<裂け目>を、その限定された
  時間と場所を、人文諸科学の「表現の論理」として探求するものである。抽象的
  で普遍的な論理は、具体的で個別の事例を通してしか発現しないし、それを通じ
  てしか探求することができない。そして「近代」において、特に人文諸科学にお
  いて、一元化の矛盾とその可能性があらわになるのは、特権的な一個人ではなく、
  特異な生を営んだ複数の個人の間にひろがる「翻訳」の地平なのである。人文諸
  科学において「近代」とは、間違いなく「翻訳」(意味を一元化するとともに無
  数の他者とつながること)が可能になった時ー空を意味している。つまり人文諸
  科学は、「翻訳」という行為を通して、近代という一元化のプロジェクトに合流
  しているのである。
   しかし、その一元的な領野において、逆説的ながら、世界は一冊の書物にいた
  るためには作られていない。そこにおいて一冊の書物は、同時に無数の書物と翻
  訳可能性を通じてつながることになる。つまり「翻訳」の地平においては、一国
  語の書物だけを収集し、整理するだけの国家的な図書館はもはや成立しないので
  ある。世界が一つになったことによって、必然的に図書館は世界へとひらかれて
  しまったのである。思考において、個人と集団、一と多、母国語と外国語、自己
  と他者の区別をすることが不可能になってしまったのだ。「近代」を生きる表現
  者とは、このような、あらゆる二項対立が先鋭的に対立しつつも無化されてしま
  う地平に生み落とされる。生と死、男と女、内と外、現実と空想とが混在する表
  現の場所。誰もが自己同一性を保つことができない過酷な場所。変身と狂気に直
  面せざるを得ない悲劇的な場所。
   そこから自らのかけがえのない個性を引き出せた者たちだけが、生き残ること
  ができる。意味の一元化は、価値の固有化(多様化)とは対立しない。一にして
  多を生きる固有の「私」。そのような存在になった者が、二つの言語、つまりは
  二つの価値の「間」を探求した時にはじめて、第三の、未知なる言語(意味)に
  到達することができるのである。そして「翻訳」という行為を前にして人は、強
  固な意味固定のシステムである言語の不自然さと理不尽さに気づき、「翻訳」不
  可能なもの、言語化され得ないものにまで思いを馳せることが可能になる。その
  「間」、その不可能性にのみ、「無限」が宿る。「無限」を具体的に希求するこ
  と。崩壊の予兆に震えるバベルの塔、つまりはバベルとしての図書館を、現在を
  生き抜くための条件として新たに構築し直すこと。それが、近代の表現を規定す
  る条件となる。
  (安藤礼二『近代論/危機の時代のアルシーヴ』NTT出版/2008.1.10.発行)

つい、長々と引用してしまうことになったが、
ここに書かれてあることは、
まるで現代における神秘学について書かれているのではないか
とさえ思わせるところがたくさんある。

近代において、世界は拡大し、ある種の一元化に向かった。
かつては一つだったかもしれない言語や人類が
無数の多様性にむかって分裂し多様なものとなった後、
近代は、それをひとつの世界に向かって収斂させる運動として現れた。

おそらくその運動を逆行させることはできないだろう。
そしてそのなかで、無数の多様なものが失われることだろうし、
やがては、現代のように、自己同一性そのものさえも
その多様なものから一元的な「顔」へと平面化されかねないところがある。
「精神分析」なるものの異様な姿は、そのひとつの象徴でもあるだろう。

しかし、近代以前の多様性は、ある種、「集合」としての多様性であった。
それが、集合的な多の多様性が一元化に向かうことによって、
今度は、その集合における多様性に代わって
「価値の固有化(多様化)」に向かう運動が現れることになる。

さて、そうした近代化の運動は、ある種、唯物論の加速でもあった。
世界の一元化はその方向に加速した。
しかし同時に、出来したのが、神秘学ではなかっただろうか。
世界の一元化は、その実、二元化に向かって矛盾のままに加速し、
ドイツ語で、die Weltが、
世界、地上、この世であるとともに、宇宙でもあるように、
神秘学におけるdie Weltは、さまざまなdie Weltの多次元時空である。
物質世界だけではなく、エーテル界、アストラル界等が含まれる。
生と死も一元化されるのではなく、多次元的な多様性のなかで、
ひとつの時空として出来する。

そのようなかたちで、
引用した『近代論/危機の時代のアルシーヴ』という書物を
『神秘学/危機の時代のアルシーヴ』として
「翻訳」してみることも可能ではないか。
本書を読みながら、そんなことを夢想している。

引用部分を書き直してみよう。

   本書が主題とするのはただ一つ、現代において「神秘学」とは一体なにか、と
  いうことである。
   神秘学とはどのような本質を持ち、現在においてどのような帰結をもたらそう
  としているのか。そのような巨大な問いを立て、それに十全な答えを与えられる
  と思うこと。それは無謀であり、誇大妄想に近いと判断されるかもしれない。歴
  史的、経済的、政治的……設問の数が増えれば増えるほど、おそらく何通りもの
  解答が用意され、それを理解する道筋は錯綜し、複雑をきわめるであろう。しか
  し逆に、そのような混乱ゆえに、またそのような混乱のなかからこそ、あらゆる
  領域に共通する大きな一つの流れだけは抽出できると思うのである。それは世界
  に一元化の道が開かれた時、そこから「神秘学」がはじまったという事実である。
  ・・・
   そこから自らのかけがえのない個性を引き出せた者たちだけが、現代と未来に
  向かう架け橋となることができる。神秘学的世界観の構築は、価値の固有化(多
  様化)とは対立しない。むしろ、神秘学的世界観という「一にして多」を生きる
  固有の「私」。そのような存在になった者が、地上世界と霊的世界という二つの
  世界、つまりは二つの価値の「間」を探求した時にはじめて、第三の、未知なる
  統合された世界の意味に到達することができるのである。そして「霊的世界観の
  構築」という行為を前にして人は、強固な意味固定のシステムである地上世界を
  絶対視する世界観の不自然さと理不尽さに気づき、地上世界と霊的世界の「翻訳」
  が不可能とされていたものに思いを馳せることが可能になる。その「間」、その
  不可能性にのみ、「無限」が宿る。「無限」を具体的に希求すること。崩壊の予
  兆に震えるバベルの塔、つまりは地上世界だけの多様化と一元化のあいだで混迷
  を極めているバベルとしての図書館を、現在を生き抜くための条件として新たに
  構築し直すこと。それが、神秘学の現代的表現を規定する条件となる。