風のトポスノート643

 

恵み


2007.12.21

 

   私の行くべきところは、「小林秀雄や本居宣長の懐」ではない。「私の
  ところへ来る必要はない。行きたいのなら、“学問する心”が意味を持つ
  と思える方向へ進め」というのが、『本居宣長』を読んで得た私の最終的
  な実感で、それこそが「小林秀雄の恵み」なのである。この個人的な「恵
  み」は、十分に一般的な「恵み」だろう。
   私は、「小林秀雄になること」を目標にしない。「本居宣長になること」
  も同様である。いかに偉大であっても、彼等は過去の日に存在したその時
  代のオリジナルで、今の時代にそれを踏襲しても意味はない。また「踏襲
  する」と考えることも無意味である。偉大なる彼等は、読者にそんなこと
  を望むはずもないのだから。
  (橋本治『小林秀雄の恵み』新潮社 2007.12.20.発行/P.174)

橋本治もなかなかいいことをいう。
この引用の「小林秀雄」とかいうところを
「シュタイナー」に置き換えてみれば、
ある程度、ぼくにとっての「シュタイナーの恵み」に近いものになる。

恥ずかしい話だけれど、シュタイナーを読み始めた頃、
「〜を読む」とかいうことで、いろいろ書いていたことがある。
今はさすがに、そういうことをしてみたいとはあまり思わなくなっている。
若気の至り、とでもいえるようなことなのだろう。
シュタイナー入門だとか解説だとかいうのは蛇足でしかないわけで、
「〜を読む」のなら、それぞれがそれぞれに読めばいいわけで、
そのためにもできれば、シュタイナーに関する資料や
翻訳はたくさんあったほうがいいと思う。
しかし、ぼくは、「シュタイナーになること」や
それに追随することを目標にしたりしたいとは思わない。
シュタイナーもそんなことなど望むはずもないだろう。

ぼくにとっては、シュタイナーから受けた「恵み」は
計り知れないものがあるわけだし、
これからもおそらく「恵み」を受け続けることになるだろうが、
そのことと「シュタイナーになること」や追随することとは別で
別どころか、それはむしろ逆なのだろうと思っている。
しかし「シュタイナーをうのみにせず・・」
と、シュタイナーをろくに読みもしないで言うようなあり方は
箸にも棒にもかからない蒙昧だと思っている。
そういう人は「恵み」を受けることはないだろうから。

上記の引用の言葉を使っていうならば、重要なのは
「“学問する心” が意味を持つと思える方向へ進め」
と実感できることであって、それこそが「恵み」にほかならない。

シュタイナーにかぎらず、さまざまな人やものから
できるだけたくさん「恵み」を受けられたらいいと思う。
そういえば、「若気の至り」の頃は、
そういう「恵み」を受けることは稀だったように思う。
ぼくのような馬鹿者でも、
今ようやくそういう「恵み」を心からありがたいと思えるようになっている。
「自由」と決して矛盾することのない「畏敬の念」というのも、
まさにその「恵み」にあたるものなのだろうという気がしている。