風のトポスノート641

 

生と死について


2007.12.8

 

高校の頃、なぜ本を読むのかという問いに対して
二次的な経験を得ることができるからと答えたことがある。
自分でそう答えてみたことがきっかけで、
経験するということがいったいどういうことか。
経験を豊かにする、深めるということはどういうことか。
そういったことを考えるようになり、
そのためかどうかわからないが、
大学の卒論のテーマとなったのが、「テクストの受容」であって、
(格好つけて、デリダの差延とかいったものまで動員した)
その結論とでもいうものがあったとすれば
それは寺山修司ばりの「書を捨てて街に出よう」ならぬ
生そのものを舞台、劇場としよう・・・とでもいったことであったか。

そもそも、いわば良くも悪しくも、象牙の塔といったものは似合わないわけで、
だからといって、世にどっぷりとなじむような性格でもなく、
そのままずるずると、俗にいながら俗と距離をとる・・・とでもいうような
中途半端な生き方を続けていたりする。
そもそも、生を謳歌するタイプでもなく、
毎朝、またこの世に目覚めてしまった!と嘆くような性向であるからこそ、
なんとかまがりなりにも生を続けていくために、
あえて俗的な要素を濃厚にもった職を選んだともいえるかもしれない。

なぜ生きるのかがようやくわかり始めたような気がするのは
やはりシュタイナーに出会う、30歳を越えてからのことだ。
なぜこの世界があるのか。
そこで生きることが重要なのか。
まだまだおぼろげではあるけれど、
こうして生きていることの、
そして経験を豊かに、そして深くしていくことの重要性が
少しはわかってきたような気がしてきた頃にはすでに40歳を越えていた。
早熟とはほど遠い愚かさだということはできるけれど、
そのことが、生きているうちにほんの少しでもわかることができたのは
きわめて幸運なことだといえるような気がしている。
もちろん、生を謳歌するといったことまではほど遠いのだけれど・・・。

さて、霊的な視点を持ち得るということは、
現代においては、二重の意味での困難を持っている。

まず、霊魂体の三分節が否定され「からだと心」の二分節になったどころか、
昨今の世の常識は、すべてが「からだ」に還元されてしまうようになった。
そしてそれ以外に関わるときには、「科学」は「科学では説明できない」
というふうにとらえるしかなくなっている。
「脳」が「唯脳」になってしまうのもその結果である。

しかし、その反面、その「科学」を軽視して、
霊好きになる傾向も同時にもっている。
「科学主義」の反作用的な意味もそこにはあるだろう。
その場合、霊的な視点といっても、安易なあの世や輪廻転生のストーリーであって、
地上の生を豊かにすることにむすびつかないことが多い。
ニューエイジ的なアセンション神話のようなストーリーもしかりである。

霊的な視点というのは、
地上の生をふまえたところではじめて生きたものとなる。
地上の生をコップにたとえると、
そこに注がれた水があふれるほどになったときに
はじめて霊的な視点が有効になるということでもある。

キリスト教は個人の「霊」を否定し、輪廻転生も否定した。
そうすることで、地上世界そのものへの関心を深めることができた。
いつまでも死をおそれる状態を続ける必要もないだろうが、
それでも、そこには地上世界における生を肯定的にとらえる
というプロセスが不可欠なのである。

仏陀は地上生活におけるさまざまな苦を説き、
そこからの解脱をすすめたが、
地上を越えた世界というような
スピリチュアリズム的なストーリーを用意して、
そこに赴くことをすすめたわけではない。
ある意味で、生と死、その双方を超える道を説いたともいえる。

人は泣きながら生まれてくる。
(毎朝、目覚めるのがつらいのも似たようなものだ)
それはまず避けようのないことだ。
けれど、泣いて死んでいく必要はない。
死なない人はいないし、死ぬのはごくごく簡単なことなのだ。
悲劇的になる必要もない。
それになにより、死よりも生のほうがずっと大変なことである。

先日、友川かずきの『顕信の一撃』というアルバムを聴いていたら、
(「顕信」というのは、自由律の「住宅顕信」である)
その最初の曲「あやかしの月」のなかに
「神に見はなされるのである」というフレーズが聞こえてきて
おもわず笑ってしまった。

実際、「神に見はなされる」ということはありえない。
「神に見はなされ」たと思い込むことはできるのだが。
しかし、人間は、そのように
「神に見はなされ」たというふうに
思い込むことが必要だから
こうして生のただなかにいるということができる。
「神に見はなされ」たと思えるほどの自由、とでもいえるだろうか。
だから、死んだら終わりである、というふうに
思い込むこともまたどうしても必要なことになる。

『パイドン』によれば 、ソクラテスは
なんだか嬉々として死を迎えようとしているようだが
おそらくみんなが嬉々として死を喜ぶようになれば、
やはり困ったことになるし、死への誤解や錯誤も多くなる。
死を恐れる必要はないのだが、それは自殺の勧めでもないし、
もちろん人を殺すことへの倫理的な壁を低くするようなものではない。

世の中は極端に振れる傾向にあって、
この世が否定されるか、この世しか肯定されなくなるか
そのどちらかになりがちである。
霊的な視点を持ち得るということが困難なのは、
霊的な視点は必要だが、
そのためには、まず地上の生のなかにあって
それを深めることを通じて、そのなかに発揮されている
霊的なものを深く認識することが重要になってくる、ということだ。
キリストが弟子の足を洗い、磔刑後地下に降りていったように、
高次のものを理解するためには、低次とされるものへと
深く降りていかなければならないのである。
そもそも、「低次」と思い込んでいることそのものが錯誤なのである。
世界が美しくみえないのは、ただ目の上に梁があるだけなのだ。

この「神に見はなされ」たような地上の生を始め、
経験を豊かにすることを通じて、
生と死をともに深めることができなければならないわけである。
その困難さと輝かしさへ。
道ははるかに遠いが、それでもそれに気づくことができるというのは
なににもまして代え難い光明ではないかと思っている。