風のトポスノート639

 

品格と品質


2007.11.4

 

   最近「品格」という言葉をよく耳にする。しかし、総理が突然政権を
  放り出す現在のわが国の空前絶後の状況を見る限り、「品格」を云々す
  るレベルにあるとは到底思えない。
   人間の美質を表す「品格「や「品位」という言葉を、いまの日本と日
  本人に使うのはもったいないというより、おこがましい。
   その日暮らしのワークングプアー層にも、高額所得者の六本木ヒルズ
  族や由緒正しき血統を誇る政治家の二代目、三代目にも、貧しいなら貧
  しいなりの人間のけなげさやひたむきさが、豊かな豊かなりの器量の大
  きさや懐の深さがまったく感じられない。
   日本人は貧富のへだてなく、誰ひとり底光りしない民族となってしま
  った。
   いまの日本と日本人を形容するには、残念ながら、材質のクオリティ
  を無機質に問う「品質」という言葉こそふさわしい。
  (佐野眞一『この国の品質』ビジネス社 2007.11.5.発行 P.3-4)

『国家の品格』とか『女性の品格』とか、「品格」の大安売りが続いている。
先日、yuccaが『女性の品格』の書評を見て、
「品格」という言葉なんか大嫌いだということを言っていた。
実際、そこで説明されている「品格」はたんなるお上品な道徳以外のものではない。
お道徳の教科書のようなもので教えられるものが「品格」であるはずもない。
そもそも「品」は「格」づけされるようなものではないはずである。
それを自分がさも「品格」を理解しているかのように語る無知。

ぼくには(自分に「品格」がないせいもあって)
「品格」がなんなのかよくわかっていないので、語ることはできない。
自分の認識や存在を超えたものについて示されても
実際のところそれが何なのかよくわからないのが当然であって、
禅でよく使われている比喩のように
月を指さしているその指しか見ていないにもかかわらず、
月を見ていると思いこんでいることはごくごく普通のことなのである。

できうれば、少なくとも、
自分がその「月」なるものがよくわからない、と思っていれば、
錯誤も小さくてすむのだけれど、
自分が月を指していると思いこんでいると
その錯誤はブレーキがないぶんだけ致命的である。
「女性はこうしたほうが、商品として品質が高いですよ」
というほどのことを「品格」として誇らしげに語ることは、
自分が月を見ているどころか、
裸の王様のような状態に陥っているといえる。
そしてそこには、あからさまに、性差別的な無知さえ露呈されている。
「美しい国」という言葉に、ナショナリズム的な無知が露呈されているように。

さて、ここ数年、佐野眞一の著書を読む機会が増えている。
著書がでると目を通しておきたい著者のひとりである。
その著書を通じて、「読む力」=「人間力」を育ててくれる
大切な視点を得ることができる。
その「読む力」=「人間力」について、引いておきたいと思う。

   最近「品格」という言葉をよく耳にする。しかし、総理が突然政権を
   本書で私が最も強く訴えたかったことは、「読む力」の復活である。
  それは日本列島の隅々まで歩き続けた宮本常一の仕事から、われわれが
  何を学び、何を継承するかという問題意識とも深く結びついている。
  (・・・)
   「読む力」とは、何も活字を読解する力とは限らない。人間は相手の
  気持ちも「読む」し、危機を未然に察知する能力も「読む力」である。
  人間の最も基本的な身体能力こそ「読む力」である。
   それが宰相から庶民にいたるまで失われつつあるところに、いまの日
  本を覆う本質的な不安の原因がある。「読む力」を失った日本人は、退
  廃したメディアから日々垂れ流される情報の洪水に溺れるばかりか、必
  要以上の強迫観念に追い立てられ、いつまでも心穏やかになれない毎日
  をおくっている。
   「読む力」の減退は、想像力を枯渇させ、信じられない犯罪を誘発さ
  せる素地ともなっている。「読む力」の復活は、人と人、人と物との関
  係を修復させる原動力となる。
  (P.331-333)

「読む力」の減退のひとつが、「品格」のことを知らぬままに、
「品格」を語ることができたと思いこんでいるような現象にも現れている。

とくに最近、自分でも痛感しているところでもあるのだが、
現代は、「情報」という意味では洪水のように押し寄せてきている。
しかしそれを「読む力」はむしろ減退しているのではないか。
そして、目の前にあることを「読む」ことを避けて、
「退廃したメディア」から画一的に垂れ流されている情報だけに頼って、
一喜一憂する生活を送っているように見える。
「読む力」を育てていないために、「読まされる」だけの生活。
その「読まされる」のが、極めて低品質のマスコミ情報だけ、
つまり「権威」がマスコミになってしまうというのであれば、
その貧しさがどれほどのものか推して知るべしである。