今日、われわれの考え得る、そして、その実現をねがうさまざまの
精神的価値のうち、何よりも切望させられるものは“愛”である。
(…)
愛とは、われわれに外から与えられる命令ではない。外からの命令
には、力の意味がふくまれている。行きすぎた個人主義は、ひとたび
外に向かって動き出し、他人を支配しようとしはじめると、はなはだ
尊大に、またしばしば、はげしい手段をもって自己を主張する。
それに反して、愛は相依相関の心から生まれ、自我中心、自己強調
とはほど遠い。力が、表面は強く、抵抗しがたく見えながら、実はみ
ずからを枯渇させるものであるのに反し、愛は自己否定を通して、つ
ねに創造的である。愛は、外部の全能なるものを待たずして、みずか
ら働く。愛は生命、生命は愛である。
(…)
愛は盲目というが、盲目なのは愛ではなくて、力である。けだし、
力は、おのれの存在が何か他のものに依ることをまったく見落として
いる。それは、自己とはくらぶべくもない大いなる何ものかにおのれ
を結びつけることによって、はじめてそれ自身であり得ることを認め
ようとしない。この事実を知らぬままに、力は自滅の淵に一直線に飛
び込んでゆく。力が悟りを体験するには、まず、その眼を覆うとばり
を取り除かなければならない。この体験なくしては、力の近視眼的ま
なこには、真のすがたは一切うつらない。
(鈴木大拙『禅』工藤澄子訳 ちくま文庫 P.195-201)
勝ち負けは、力のもっともこだわるところだろう。
力を行使することで、他人を支配することに喜びを見出すというのは、
人のもっとも堕した自我の性質のひとつだといえる。
しかし、ぼくは生来、
競争や勝ち負けなどが好きになれずにいたのだけれど、
そのことは、決して、愛多きことを意味していたのではない、
ということに気づいたのは比較的最近のことだ。
真の力は愛であり、真の愛は力である。
そうとらえる視点に気づいたのである。
力は必ずしも、愛と別のものではない。
愛も他者なしでは成立しないように、
力も他者なしでは成立しないからである。
愛は情ではない。
情と取り違えられた愛に欠けているものは
ある意味で、真の力なのかもしれない。
真の力は、他者支配には向かわない。
真の力は、みずからの支配に向かう。
その支配とは自由のことでもある。
単に力を回避するのは、
愛の可能性をもまた回避することにつながる。
力は強さでもあるからだ。
重要なのは、愛と力をどちかが重要かと問うことではなく、
それが同じものの両面でもあるということなのだろう。
そして、そのそれぞれの面は、未完成なかたちで、
世界のなかでさまざまなかたちで展開していく。
そういう視点をもってみずからをふりかえってみれば、
ぼくに欠けていたのは、力なのでもなく、
また愛だけでもなく、
その両者の車輪で歩むことだったことがわかる。
愛と智が別のものでもないように、
愛と力ともまた別のものではないのである。
力なき智なきミカエルが存在しえないように、
もし別のもののように見えるとするならば、
それはおそらく愛に似(せ)たなにか、
力に似(せ)たなにかなのではないだろうか。 |