風のトポスノート636

 

実際的方法


2007.10.19

 

   禅匠たちは、この新しい物の見方をどのように示しているだろうか。
  かれらの方法は、いきおい非一般的・非常套的・非論理的であり、した
  がって当然、はじめての者にとっては不可解である。この章の目的は、
  それらの方法を次の一般的表題の下に分類して述べることにある。
   一、口頭による方法。
   二、直接的方法。
   第一の方法は、さらに次のように分けることができよう。1、逆説。
  2、反対の超越。3、矛盾。4、肯定。5、反復。6、叫び。
  (鈴木大拙『禅』工藤澄子訳 ちくま文庫 P.133)

ひとになにかを伝えるというのは、とてもむずかしい。

仕事で、デザイナーに校正を指示するのでさえ、
デザイナーがある程度の能力をもっていないと、
口頭でいっても、間違えないように文書で指示しても、
その何割かは修正されていないままになってくるので、
何度も何度も再度指示しなければならないことはよくある。

口頭でいってチェックさせても、
どこかで抜け落ちてしまうし、
文書にしても、ある程度文書をがまんして読む訓練がないと、
その文書が適当に読まれてしまって、
「見たつもりだったんですけど・・・」となる。

先ほども、写真を差し替えてくれ、と
ちゃんとその意味も説明したものが修正されてなかった。
その「意味」が抜け落ちてしまっていたので、
頭のどこかでそれが抜け落ちてしまっていたのだろう。

そのように、あたりまえのような意味さえ
なかなかに伝わりにくいのであってみれば、
通常の、つまり「一般的」「常套的」「論理的」なものを越えたところでは、
なおさら、伝えるというのは、きわめてむずかしくなる。

シュタイナーが協会員に
「いかにして党派的にならないでいられるか考えておくように」
といったときにも、その「口頭による方法」は、
ほとんど効果を発揮することはなかったようで、
文書になっているものにしても、
まず読まれない(ちゃんと読むひとが少ない)ということ、
読まれたとしても、それを教条化してしまうことなど、
伝えるということのむずかしさは、普遍的なものでもあるようである。

さまざまな場所で、さまざまな「実際的方法」が試みられるのだが、
それはすぐに形式化・固定化されてしまいがちである。
世界のあらゆるものは無常であって、
あらゆるレベルで形式化・固定化できるようなことはない。
しかし、ひとは、安心したいがために、形式化・固定化に走るものだ。
組織とか党派も、その必要悪的な部分の自覚とともにあればまだしも、
それなくして肯定されるときには、
あらゆるものがそこで形式化・固定化してしまうことは避けられない。

だからといって、渇!と叫んでいたり、
沈黙のままでいたらいいかというと
それさえもまた形式化・固定化を避けられはしない。

では、どうするか。
その「実際的方法」は?
というと、
自らの問いと答えの常なる運動とでもいえるありように
自覚的である必要があるとしかいえないのだろう。