風のトポスノート635

 

問う者と問いが一つであったところにある答え


2007.10.15

 

   人生の根本問題は、主客を分かつものであってはならぬ。問いは知性的に
  起こされるのであるが、答えは体験的でなくてはならぬ。なぜならば、知性
  の性質として、知性上の答えは必ず次から次へと問いを呼び求め、最後の答
  えに到り着くことがない。その上、たとえ知性の解決というものが得られた
  としても、それはつねに知性の上に留まり、おのれ自身の存在を揺り動かす
  ものとはなり得ない。知性はただ周囲を空まわりし、かつつねに、二者対立
  の形で物事を取りあげる。ある意味では、実在に関する問いは、問われる以
  前にすでに答えられているとも言える。しかしことのことは、知性の次元で
  は理解されないだろう。それは知性を越えたところの消息だからである。
   問うことと、二つに分けて見ることとは、不可分離の関係でつながってい
  るが、一方、問うこということは、実は、実在がおのれ自身を知ろうとする
  ことである。おのれ自身を知るためには、実在はみずからを問う者と問いと
  に分かつことが必要である。そこで答えは、分離が行なわれる以前の、実在
  そのものから出てこなければならない。つまり、答えは、問う者と問いとが
  なお一つであったところにある、ということである。問いは分離の後に生ま
  れた。分離の以前には問いはなかった。だから、いまだかつて問いのなされ
  たことのないところに到れば、そこには当然答えはない。問うことも、また
  答えることもない。この世界にこそ、究極の解決がある。かくて禅の哲人は、
  答えはいまだ問われざる以前にすでに与えられている、と明言するのである。
  (鈴木大拙『禅』工藤澄子訳 ちくま文庫 P.27-28)

まず、答えをほしがる者がいる。
その多くは、答えがあると思っている者であろう。
もちろん、テストであらかじめ決められた答えであるような答えを
求めている者にとって、答えがないというのはある意味詐欺のようなもの。
そして、そう思う者にとって、問いは与えられるものでしかない。
テストの最善の結果は、100点満点ということになる。

それはそれで結構なことではあるのだが、
たとえばこんなテストがあるとすればどうだろう。
解答用紙にすべて正解が書かれてある答案用紙が配られる。
そこで問題である。
「この答えが正解になるような問題を作成せよ」

答えに「1」が書かれている。
その「1」を導き出すための問いを考える。
答えに「アリストテレス」と書かれている。
その「アリストテレス」を導き出すための問いを考える。

その問いの想像力が試験される問題である。
もちろん、それに100点満点はありえないが、
問う力をつける遊びとしてはそれなりに意味のある試みかもしれない。
しかも、その問いはあらかじめ答えとセットになっているのだ。

問いが与えられると思っている者にとって、
みずからが問いを創造する必要があるということの前で
立ちすくんでしまうかもしれない。
しかし、問いが与えられると思っている者にとって、
世界が時々刻々創造的であるということはありえない。
その者にとって、世界とはいったい何だろう。
そもそも、なぜ世界があるのか。
そして、なぜ私がここにいるのか。
というある意味根源的な問いの前に立つ
ということはありえないことかもしれない。

さて、与えられた問いしかもたぬ者には、いかなる答えも意味をもちえない。
そして、問いをもたぬ者は答えを得ることができない。
答えは問いにふくまれているからである。
通常の知性においてさえ多分にそうであるのだから、
「いまだ問われざる以前にすでに与えられている」答えのことは
想像することさえできないだろう。
つまり、問う者と問いが一つであったところにある答えのことである。

しかし、考えてみるならば、通常の知性を越えようが越えまいが、
問う者と問いというのは、そもそもひとつだととらえると
さまざまなことに合点がいきはじめるのではないだろうか。

そもそも、その人が真に問うことのできる問いは、
その人そのものを如実に表現することになる。
つまり、その人の問いはその人を越えることはできない。
その人そのものであるしかないのである。

それが、極めて卑近な問いであるにせよ、
魂についての問いであるにせよ、同様である。

いかなる問いを持ち得るか。
それが私であり、あなたであるということである。
そしてそこに答えも同時に存在することになる。
欲望も焦りも愛も恐れも、そして悟りもそこにある。