風のトポスノート634

 

負の先払いとしての負の自


2007.10.8

 

美輪明宏が語る正負の法則。
これについては、松岡正剛も「千夜千冊」の第530夜
「美輪明宏・ああ正負の法則」で語っている。

それは「負の先払い」ということで、
「世の中には「正と負」というものがあって、
この正負の両方をそれぞれどのように見るか、見立てるかが、
その人間の魂の問題のみならず、人生全般を決定的に左右する」、
「正があれば、必ず負がやってくる。
負を避けつづけようとすればするほど、正は歪んでいく。
ここは、おおきに見方を変えるべきなのである。
まずは負を先払いする気持ちが必要なのである。」
というものである。

しかし、そのとらえ方は、
ぼくのなかではどこかしっくりこない。
どうしてだろうと思っていたのだが、
そこでいう「正と負」のとらえ方は、
むしろ「光と影」といったほうがいいのではないかと気づいた。
つまり、外的な運命のかたちで「正と負」ととらえると
見えてこないものも、そうとらえたほうが
ずっと腑に落ちるのである。

単純にいえば、強く光を当てると
そこには光が強ければ強いほど影も濃くなるということ。
実際の人のありようとしてそれをとらえるとするならば、
「正しい人」であればあるほど、その逆もまた強くなるということになる。
さらにいえば、自分のなかの闇を見ることはできないと、
その闇から逆襲されてしまうわけである。

ある「正しい人」に「負」の現象が訪れるとする。
その「正しい人」にはなぜそんなことが起こるのかわからない。
「自分にやましいことはなにもない。
それなのになんでこんな悲しく苦しいことが自分を襲うのか」
そう問いかけ問いかけ、その答えはどこからも得られない。
自分のなかの闇の存在がその「正しい人」にとっては
自分のものとしてみることができないからである。

しかしその「正しい人」に
それを気づかせるためには、
外的なものとしてその闇を現象化させる必要がある。
もちろんそれは外的な形をとっていたとしても
おそらくはその闇は自分の放逐したものなのである。

シュタイナーはエッセネ派について、『第五福音書』で語っている。

  エッセネ派教団の人々は俗世から離れて、隠遁して、神聖な生活を
  送つていました。さうすることで、彼らは俗世の人々に不幸をもた
  らしてゐたのです。人々はエッセネ派教団の人々と離れたことによ
  つて不幸にならなければならなかったのです。
  ・・・
  「エッセネ派の人々と大事な話をして、帰つてくる時、門のところ
  にルツィフェルとアーリマンが逃げて行くのを見たのです。エッセ
  ネ派教団の人々はその生活と秘密の教義そのものによつてルツィフ
  ェルとアーリマンから身を護ってゐるのです。ですから、ルツィフ
  ェルとアーリマンはエッセネ派教団の門の前まで来て、逃げて行く
  のです。けれども、エッセネ派教団の人々がルツィフェルとアーリ
  マンを追い出すことによつて、この悪魔たちは他の人々のところに
  行つてゐるのです。他の人々を犠牲にして、エッセネ派教団の人々
  は魂の清浄さを得てゐるのです。彼らはルツィフェルとアーリマン
  の影響を免れることによつて平安を得てゐたのです。」
  (イザラ書房/昭和61年4月1日発行 P.96-97)

おそらく、現代においては、
そうした「他の人々を犠牲に」するようなかたちではなく、
自分ひとりのなかで、エッセネ派と他の人々がいて、
それぞれが正と負を担うことになっているようにも思う。

だから、「正しい人」は、ルツィフェルとアーリマンを追い出し、
そして自分のなかで見えなくしている「他の人々」のところにやってきて
その影響をまるで外からくるように受けてしまう。

その意味で、「負を先払いする」ために必要なのは、
自分が見ようとして見ていないものを
つまり、強い光の影の部分を見るということなのだろう。

もちろん、「正しくない人」、
つまり、顕在化している人格が影になっている人というのもいて、
そういう人たちは、「正しい人」を見ると
自分のなかの影としてそれに過剰に反応することになり、
まるで呼び込まれるように「正しい人」を攻撃してしまう。
  
シュタイナーがいうキリストは
ルツィフェルとアーリマンという悪の二つの極のあいだにいる。
「正しい人」と「正しくない人」、
あるいは、天使と悪魔のあいだにいるのではない。
その両方の極が悪なのである。
つまり、「正しい人」というのは自覚のない悪でしかない。

善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや、というのも、
自覚していない悪でさえ往生できるのであれば、
自覚しいている悪が往生できないわけがあろうか、
とでも翻訳できるかもしれない。

なにもわざわざ悪に近づく必要はないのだけれど、
見えないところに自分の「負」があることに気付くことで
外からやってくるように見えるさまざまの「負」に対して
それまでとは異なった認識を得ることができる可能性は
飛躍的に増大させることができるのではないだろうか。

しかし、実際、自分をみても、
とほほほ・・・と思うしかないほど、
自分のそうした「負」の部分というのは思いのほか大きいのがわかる。
やれやれ。