風のトポスノート633

 

センチネルの仕事を担うこと


2007.10.2

 

   感謝もされず、対価も支払われない。でも、そういう「センチネル(歩哨)」
  の仕事は誰かが担わなくてはならない。
   世の中には、「誰かがやらなくてはならないのなら、私がやる」というふうに
  考える人と、「誰からがやらなくてはならないんだから、誰かがやるだろう」と
  いうふうに考える人の二種類がいる。
   「キャッチャー」は第一の種類の人間が引き受ける仕事である。ときどき「あ、
  オレがやります」と手を挙げてくれる人がいれば、人間的秩序はそこそこ保たれ
  る。
   そういう人が必ずいたので、人間世界の秩序はこれまでも保たれてきたし、こ
  れからもそういう人は必ずいるだろうから、人間世界の秩序は引き続き保たれる
  はずである。
   でも、自分の努力にはつねに正当な評価や代償や栄誉が与えられるべきだと思
  っている人間は「キャッチャー」や「センチネル」の仕事には向かない。適性を
  論じる以前に、彼らは世の中には「そんな仕事」が存在するということさえ想像
  できないからである。
  (内田樹『村上春樹にご用心』アルテススパブリッシング/2007.10.9.発 行/P.29-30)

岡山に来て「損じゃが!」という声をよく耳にする。
「よく」ではないかもしれないが、少なくともぼくには印象的に響く。

だれでも「損」をしたいとは思っていないだろうが、
なんにでも損得勘定を持ち込む人をみるとちょっとばかりうんざりする。
もちろん「損じゃが!」と
損得勘定に敏感に生きていることと
実際に損をしないで得をしているということは別のことで、
ひょっとしたら「損じゃが!」と言えば言うほど
どこかでひどい損を被っていることは大いにあり得ることである。

また、「損」とひとくちにいっても、お金の損だとはかぎらない。
「こんなことをさせられる」というのも「損」のなかにはいるだろう。

だれだって、「感謝もされず、対価も支払われない」ことに
積極的に向かっていきたいなどとは、
よほどのマゾでないかぎり思ったりはしないだろうが、
おなじことでも、自分が選び取ったものであるならば、
それを「損」だと感じることはないだろう。
だから、「損をした」「損である」と思うということは、
それを自分で選び取っていないということでもある。
選び取っていないにもかかわらず、
それに対して、「感謝」や「対価」といった
それに見あうものが与えられないものだから、
「損じゃが!」となる。

しかし、なにかをしたことに対する「対価」が
いったい何なのかを考えてみると、
その「対価」のとらえ方次第で、
ずいぶん、損か損でないかのボーダーは変わってくる。

株とか投資で儲けることを目的としている人にとって、
損か得かということは、単にそれによって得られる
お金の多寡だけが基準となる。

感謝されたいがために何かをする人は
(感謝されないと傷ついてしまうというのも同じ)
その感謝ということがそのお金になっている。

そういう意味でいえば、
「誰かがやらなくてはならないのなら、私がやる」と
みずから「センチネル(歩哨)」になるということは、
お金や感謝などという「対価」以外のものを
自分なりに得ているということは少なからずいえるだろう。

そして、自分の「レーゾン・デートル」に関わるものであれば、
それはだれがなんといっても、どんな表面的な大損をしても、
そうせざるをえないのである。

そういう人がいるから、「人間的秩序」が保たれるような
そんな「センチネル」の仕事をみずから引き受けるような人は、
それと自分では意識しているといないとにかかわらず、
その行為そのものの意味が、
「損じゃが!」とばかり思っている人とは異なっている。
ただ、ある人はそういう行為に対して意味を見出すことができず、
「そんなことをするのは損じゃが!」としか思えないのである。
想像力の貧困あるいは世界観の狭窄・・・。

ある意味、じっとしているのはつまらないし、
それに意味を見出せない人が、
なにかにつけて動きまわてりする青魚のような人なども、
(鯖のような魚は泳いでいないと息ができずに死んでしまう)
同じようなものなのかもしれない。