風のトポスノート632

 

スピリチュアルという勘違い


2007.8.22.

 

  スピリチュアルということは、
  現実の中で困ったとき、「霊」に意見をきいてみる
  ということだし、
  星占いなら、星占いで、
  「星」に意見を聞いてみることだし。

  でもそれだったら自分には、
  一気に「霊」とか、「星」とかに行く前に、
  まだまだ意見を聞いてみたい人、
  聞くべき人がいる。

  まず自分だ。

  自分はほんとはどうしたかったのか?
  自分は何を大切にしてきたか?
  自分はこれからどうしていくのか?
  
  山田ズーニー:おとなの小論文教室。
  2007-08-022
  Lesson362 ちゃんと考えることをしなかった自分へ
  http://www.1101.com/essay/2007-08-22.html

いつも思うことなのだけれど、
他のことではとても賢明だと思える人が、
「霊」とか「スピリチュアル」だとか「占い」だとかになると
とたんに、それらについて、
ちゃんと考えるということができないことが多いようだ。

もちろん、「霊」や「スピリチュアル」を
あまりにバカっぽく、安易にとらえる人のほうが多いのは確かなのだけれど、
そうとる人が多いということと、
「霊」や「スピリチュアル」への見方を
その部分に固定化してとらえるということは別のことだ。

それはどんなテーマについてもいえることで、
多くの人がそうだといことと
そのテーマそのものがそうだということだとは別のことである。
そして、多くの人がそうだということで
その危険性を指摘することができるためには、
そのテーマそのものについてある程度は
ちゃんと考えてみることが不可欠であるにもかかわらず、
なぜか、「霊」や「スピリチュアル」になると
多くの場合、それらをちゃんと考えることにはいかないように見える。

上記の山田ズーニーにしても、
まず自分でちゃんと考えなければならないということは正しいし、
それをはずれてはどこにもいけないのは確かである。
しかし、自分でちゃんと考えるということと、
「霊」や「スピリチュアル」ということが
決して矛盾しないレベルがあり、
むしろ考えを深めるためにどうしても必要な部分がある
という方向にはいかないようである。

香山リカの「スピリチュアル」現象への批判なども
ある常識的なまでのレベルを見れば、いわずものがなのことではあるけれど、
(やはり、信じやすく依存しやすいバカは多いのだ)
だから、香山リカが「霊」や「スピリチュアル」への
認識を深める方向にあるかといえば、決してそうはみえないのだ。

わかるのは、良識ある人、賢い人(と自分で思っている人)は、
「霊」や「スピリチュアル」をまともにとりあわない、とりあってはいけない、
という不思議な暗黙の前提があるように見えることだ。

そういう意味では、「霊」や「スピリチュアル」への勘違いは
それらを安易にとらえるほうもそうだけれど、
それを批判するほうも同様であるということはできそうだ。

もちろん、シュタイナー(教育)現象に関しても
同じことを考えてみる必要がある。
むずかしいところだが、
世の中の動きは、「誤解」と「批判」を肥やしにしながら、
わずかながらも理解され、認識されているということがあるので、
その裾野の部分をただ否定することもできないわけである。
そういう意味でも、さまざまなレベルでの「勘違い」も
長い目でみれば、それはそれで意味があることなのかもしれないのだけれど・・・。