風のトポスノート631

 

思想とは


2007.8.19

 

   魚住/まず議論の前提として思想とは何かという話から始めましょう。
   私の中にはとても浅薄だけど拭いがたい疑念があります。それはいくら
   思想、思想といっても、戦前の左翼のように苛烈な弾圧にあえばすぐ転
   向しちゃうのじゃないかということです。特に私のように臆病な人間が
   いくら思想をうんぬんしたところで仕方がないんじゃないかと。
   佐藤/魚住さんがおっしゃる「思想」というのは、正確には「対抗思想」
   なんですよ。
   魚住/どういうこと?
   佐藤/いま、コーヒーを飲んでますね。いくらでしたか?200円払い
   ましたよね。この、コイン二枚でコーヒーが買えることに疑念をもたな
   いことが「思想」なんです。そんなもの思想だなんて考えてもいない、
   当たり前だと思っていることこそ「思想」で、ふだんわたしたちが思想、
   思想と口にしているのは「対抗思想」です。護憲運動や反戦思想にして
   も、それらは全部「対抗思想」なんです。
   魚住/えっ、そうなんですか。では、佐藤さんがおっしゃる意味での
   「思想」のことをもっと詳しく話してもらえませんか。
   (・・・)
   佐藤/「思想」とは気付きづらいものだと言いましたよね。気付くため
   には「思想」に対置する「客体」が必要です。自分の顔を自分で見るこ
   とはできませんよね。でも、前に鏡を置けば左右逆に映った自分の顔を
   見ることができる。客体を対置することをこのようにイメージしてくだ
   さい。
   (・・・)
   佐藤/一万円がここにあったら欲しいな。いい大学に入って、一流企業
   に就職して……。集団催眠にかけられて、あたかも空気のようになって
   しまっていること、これは何なのか。
   (佐藤優・魚住昭『ナショナリズムという迷宮』
    朝日新聞社  2006.12.30.発行 P.23-25)

『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』で有名になった
佐藤優のことは別の機会にゆずることにして、
ここで「思想」として言われていることはとても示唆にとんでいる。

私たちがふつう「思想」としてとらえているものは「対抗思想」であって、
それが変わったとしても、それは極端な話、
衣服を着替えるようなもので、そんなに驚くほどのことではない。
そういう意味での「思想」を意識化することもむずかしいことではない。
ましてその「思想」をある種の人間関係や利害関係、
世の中の思潮傾向などから選択している場合、
それらのファクターが変化してしまえば、
その「思想」を保持しておく必然性もなくなってしまうのは当然だともいえる。

しかし、上記の対話で示唆されている意味の「思想」は、まさに「気付きづらい」。
その「思想」は「あたりまえ」であり、「そういうもの」である。
いやその「あたりまえ」「そういうもの」以前の前提になっていることださえいえる。

例をいろいろ挙げてみることにする。

 好きな色はありますか。なぜあなたはその色が好きなのでしょう。
 嫌いな色はありますか。なぜあなたはその色が嫌いなのでしょう。
 好きな食べ物はありますか。なぜあなたはその食べ物が好きなのでしょう。
 嫌いな食べ物はありますか。なぜあなたはその食べ物が嫌いなのでしょう。
 好きな音楽はありますか。なぜあなたはその音楽が好きなのでしょう。
 嫌いな音楽はありますか。なぜあたたはその音楽が嫌いなのでしょう。
 世の中でいちばん大事なものは何ですか。またなぜそれがいちばん大事だと 思うのですか。
 世の中でいちばん許せないものは何ですか。またなぜそれがいちばん許せな いのですか。
 趣味はなんですか。なぜそれが趣味なんですか。
 「いい学校」に入ることに価値を感じますか。感じるとしたらなぜですか。
 人から尊敬されたいと思っていますか。思っているとしたらなぜですか。
 (いちばん)好きな人はだれですか。なぜその人が(いちばん)好きなのですか。
 (いちばん)嫌いな人はだれですか。なぜその人が(いちばん)嫌いなのですか。
 (結婚している人に)なぜあなたはその人と結婚しましたか。
 (子どもをもっている人に)なぜあなたは子どもをもっているのですか。

もちろんそれなりの「理由」をあえて挙げることはできることもあるだろうが、
「ああだからそうなのだ」と自分で思える場合は少ないのではないだろうか。
自分でほとんど明確に意識化できるものがあるとすれば、
それはむしろ自分の「思想」なのではないのかもしれない。

それら、自分の人格を構成していえるとさえいえるさまざまな「思想」は
どのようにして自分の人格の一部のようにさえなってしまっているのだろう。
それはほんとうに(どれほど)自分の一部だといえるのだろうか。

しかし、自分が意識化することさえむずかしい
そうした「思想」を問い直すことなしで生きることは
ある意味、自分を「ロボット」のようにしてしまうことだ。
シュタイナーのいう、現代人にとってももっとも重要な課題のひとつである
「意識魂」的な在り方を身につけるのだとすれば、
そうした「なぜ」を問い直すことなしでは、
自分の「思想」を問い直すことなしでは、一歩も進むことはできないだろう。