風のトポスノート630

 

飢え


2007.8.2

 

   対象を特定できるできないにかかわらず、誰もが何かに飢えています。そして
  人間の飢えのほとんどは、簡単に識別できます。多くの人々が愛に飢え、またあ
  る人々は富に飢えています。健康と幸福への飢えもまた、私たちの時間を支配し
  ます。今このときにも、ある人々は報復を求め、ある人々は調和や平和を求めて
  叫び、正義と真実と優しさが打ち勝って愛する者を戦場に送らずにすむことを求
  めています。
   ある人々は肉欲を満たすことに飢え、またある人々は霊的に満たされることに
  飢えて、まるで日々の食事をとるように悟りを求めます。そのような人々は、よ
  り説明しがたい飢えに動かされているからです。飢えは、その深さと駆りたてる
  欲求によって様々な方法で表現されます。人生における問題が何であろうと、そ
  の問題の表面を一皮むけば、誰もが何かに飢えていることがわかります。
   権力への飢えはほかへの征服につながり、知識への飢えは成長へとつながりま
  す。富への飢えはほかからの搾取、利他主義への飢えは富の再配分につながりま
  す。コミュニケーションへの飢えはほかとの和合へとつながり、本当の食べ物へ
  の飢えは、私たちにしばしば欠乏感を与えます。知恵に対する飢えは、私たちを
  自分自身の深みに触れさせ、その知恵を人生の応用するように私たちを試します、
  真実への飢えは、私たちをスピリットという霊薬の入った内なる聖杯の発見へと
  導きます。
  (ジャスムヒーン『神々の食べ物/聖なる栄養とは何か』
   ナチュラルスピリット 2007.5.16.発行 P.19)

著者は、わたしたちの飢えは基本的に
「肉体的な飢え」「感情的な飢え」「精神的な飢え」
「霊的な飢え」「共同体や地球的な飢え」に分類されるといい、
これらの「飢え」がすべて満たされないかぎり
私たちはいつも不満を感じることになるという。

「飢え」は多くの場合、上記の分類の複数にまたがった「飢え」で、
たんに、お腹が減ったら何でもいいから食べればいいということは少ない。
失恋したらやたらとお腹が空くという人がいるとすれば、
それは単に「肉体的な飢え」なのではないということである。

しかし、喉が渇いたら、水を飲めば渇きがおさまる、
という肉体的な飢えは、ある程度それを満たせば
次に乾くまではその飢えはおさまるだろうが、
肉体的な飢えよりは、感情的な飢え、感情的な飢えよりは精神的な飢え、
精神的な飢えよりは霊的な飢えのほうが、
その「飢え」を満たすことは難しいことが多いだろう。

おそらく、「飢え」の「器」の大きさが、
肉体よりも感情が、感情よりも精神が、精神よりも霊が
ずっと大きくて、それを満たすのには
とても大量の「食べ物」が必要になるということである。

それにも関わらず、現代のような即物的なあり方が蔓延してくると
自分の求めている「食べ物」がいったい何なのかわからないことが
多くなってきているように見える。
わかるのは、極めて肉体的なレベルの飢えや
低次の感情レベルの飢えばかりで、
その「飢え」を満たそうとして、人々は狂おしいまでに駆け回っている。
そうした状態の人に、精神的な食べ物や霊的な食べ物のことを示しても
それが「食べ物」であるということさえわらないだろう。
宮沢賢治のいう「すきとおったほんとうの食べ物」に
目を向けることはむずかしいだろう。

この地上という世界が困難なのは、
まずは、お腹が空いたり喉が渇いたりすることをなんとかしなければ、
生きてはいけないことである。
そしてそれを満たしても次々とさまざまな「苦」が襲ってくる。
四苦八苦である。
それを克服すべき指針として、仏陀は「八正道」を説き、
キリストは悪魔に対して「人はパンのみにて生くるにあらず」と言い放ったが、
世界を見渡してみても、今、たとえば環境問題として問題にされているのは、
きわめて肉体上の飢えの諸問題にほかならない。
そしてそれは、個人の「飢え」であるというよりは
全人類の直面せざるをえない「飢え」であるともいえる。
むずかしい世界だ。

さて、生きるということは、
あらゆるレベルでの「飢え」に対して
自分はどうあるのかを問いかけていくことだともいえる。

自分は今どのような「飢え」に直面しているのだろう。
その「飢え」こそが有り体の自分であるということもできそうである。
少なくともその「飢え」を人に語っても
恥ずかしくないものであるようでありたい。