風のトポスノート628

 

十牛図・三諦円融・一念三千


2007.7.14

 

牛を尋ね、牛の跡を見つけ、牛を見つけ、牛をつかまえて、
牛を牧し、牛とともに「家」に帰り、牛のことさえ忘れ、
さらには人も牛も忘れ、源に還り、そうして山から下りてくる。
幾度もくり返されるであろう、その螺旋状のプロセスは、
たましいの辿るプロセスだということができる。
それを描いたのが、禅の十牛図である。

その十牛図について久しぶりに思いをめぐらしていたときに、
「空」「仮」「中」という3つの真理を自覚するという
「三諦円融」との関係はどうなのだろうと思いついた。

空と仮と中もある意味、螺旋状のプロセスでもある。
しかも空という真実(空諦)は仮諦も中諦をふくみ、
仮諦は空諦と中諦をふくみ、中諦は空諦と仮諦をふくみ、
その三諦が円融し一体となっているというのが、
天台智ぎの三諦円融。
空と仮と中の同時的でありかつプロセスでもあるというコンセプト。

天台智ぎには、一念三千という
一瞬の心のなかに、三千世界がふくまれているという
重要なコンセプトがあるが、
それを「一念」のなかにある三千の同時的プロセスである
というふうにとらえることもできるだろう。

同時的プロセスであるということについて
イメージしておくと、こんな感じにもなるだろうか。

組み立て式の紙の箱があるとする。
箱は組み立ててはじめて機能するが、
そこには、プロセスが内包している。
展開してみれば、その構造がわかるが、
その構造はプロセスを追って組み立てていくことで、箱という形になる。
箱はそのプロセスを前提にして設計され、
組み立てられるプロセスと組み立てられたあとのかたちで成立する。
そこには、「箱」というかたちには、プロセスが内包されているわけである。

そうとらえれば、十牛図というプロセスも
プロセスであり、かつ同時的であるというふうに
とらえてみることもできるだろう。
一念三千のように、十牛図的なかたちは
同時的にすべてをふくんで成立する。

ある意味で、この地上において肉体をもって
生きていることの可能性というのは、
そうした同時的プロセスが、
同時的であることが忘却されて
今の否応ないまでのプロセスのひとこまに
投げ込まれていることで生まれるものなのかもしれない。

「思い」を変えただけでは、容易に世界が変わることはない。
その持続的なプロセスと強度と具体的な行動がそこには必要とされる。
その血みどろの果てにしか、何も変わらないもどかしさ。
真実(諦)はどこにあるというのだろうか、と天を仰いで嘆くこともしばし。
やがては、そんなものあるものか、ともなり、
それがまた持続的なプロセスと強度と具体的な行動を通じて、
「仮」ではあるとしても、真実となって顕現してしまう。

そんな果てに、十牛図的なプロセスが見出され、
空、仮、中という円融プロセスも見出されることになる。
しかし気づいてみれば、この「一念」のなかに、すべては含まれているのであった。
それがそのつどある部分がフォーカスされていうことで顕現してくる。
ある欲望がフォーカスされると、そこがズームアップされ、
それに基づいたプロセスが次々と顕現してくることになる。
すべては同時的であるが同時にプロセスでもある。
地上においては同時的であることがともすれば隠蔽され
否応のない「現実」が外から降りそそいでいるように感じられてしまう。
そしてそのプロセスから逃れるすべはないかのように。

さきの箱のたとえに戻ってみよう。

自分は今、ひとつの箱である。
その箱であることから逃れることはできるだろうか。
すでにしてひとつの箱という結果となっている自分。
しかし、その箱は「箱」に縛られているのではなく、
「箱」という自由を選択したととらえることもできる。
だから「箱」でなくてもいい自分であることを想定することも可能である。
箱を展開したままのものをそのままシートのように使ってもいいし、
同じ箱にしても、当初の目的だけに限定して使わなくてもいい。
さらにいえば、最初の設計の段階を検討しなおすことも考えられるし、
そもそも箱的なコンセプトそのものを見直すこともできるだろう。
しかし、今自分はひとつの箱である。
それを自覚的に選び取ったかどうかがわからないまでも
今こうしてひとつの箱であることが選択されている。

そしてその、自分がひとつの具体的な箱であるということのなかに
三千世界が含まれ、十牛図的なプロセスが含まれ、
空仮中のプロセスが含まれている。
自分という箱は、空であるとも仮であるとも、
また中であるともとらえることができる。
しかもそれは渾然一体となって、
今の自分という箱のかたちとして顕現し、フォーカスされている。

その、自分が今この自分であるということの前で
さて、いったいどうするのか。
私というプロセスはその前でときに、いやしばしば、激しく行き惑う。