風のトポスノート627

 

かるみと十牛図


2007.7.10

 

   十牛図は、人間の悟りの過程を描いたもので、そこに年齢的な推移と
  いうものを重ねてみると、一生の流れのイメージはつかみやすい。本書
  では、ここに、エニアグラム、四季の考え、折口信夫、ヘルメス思想な
  どを結合したが、どれも違和感なく結びつく。秋という定年の時期や、
  五十代から六十代前後に、わたしたちの人生は形を育てるところから、
  精神が分離して、この精神の活発さそのものを遊ぶ力が出てくる。仏教
  では、これを「遊化(ゆげ)」ともいうわけで、第十図の入てん垂手の
  老人の姿勢である。
   若い間と、この折り返し後の価値観には転倒がおきやすく、若いとき
  に良いものに見えたものが退屈に見えてしまうし、若いときに面白くな
  かったものが、面白く見えてくる。それにそもそも感受性とか楽しみと
  を感じる力が強烈になっていく。もう書いたように、物質的・身体的・
  生活的な成長すなわち植物の育成にたとえられる活動にエネルギィを使
  わなくてはならないという重い負担がかからないからである。
  (松村潔『たましいのこと/十牛図で考える人生』
   ユビキタ・スタジオ 2007.6.25. P.154-155)

禅の十牛図については 、解説もいろいろでていて、
そこそこポピュラーになっている感もあるので、
それを敷衍するだけでは新味も出ないのだけれど、
松村潔の『たましいのこと/十牛図で考える人生』を読んであらためて思ったのは、
十牛図の汎用性、つまりなんにでもそこそこ発想の応用が利くということだった。
それと、年齢的な推移を重ねてみないと、なかなか見えてこないものがあると いうこと。

先日、「かるみ」について少し書いてみたが、
その「かるみ」が腑に落ちるかどうかというのも、
その十牛図的なプロセスがわかるかどうかに似ている。

念のために、禅の十牛図とは、以下のとおり。
第一図:尋牛/第二図:見跡/第三図:見牛
第四図:得牛/第五図:牧牛/第六図:騎牛帰家
第七図:忘牛存人/第八図:人牛倶忘/第九図:返本還源/第十図:入てん垂手

牛の足跡を辿ったり、牛を追いかけたりするというあたりでは、
やはり「かるみ」は見えてこないだろう。
ある意味、いちどは第八図のような、ぽっかりした円のようなあり方や
第九図のように山にでも還るようなあり方を通って、
そうして山から下りてこなくてはならない。
山から下りて、哄笑できたりもするのも、
「かるみ」のひとつでもあるだろう。

おそらく、「かるみ」というのは、
あえて山から下りてくるがゆえにはじめて得られるところがある。
だから、山にのぼってさえいないときには、
それはまるで霞のようにあじけのないものに感じられるかもしれない。
牛を追いかけることに汲々としているところでは、
「かるみ」が「かるみ」であることが腑に落ちることはないのである。

もちろん、人は、十牛図を螺旋状に何度も何度もくるくると飛翔しながら、
歩んでいくことになるので、山から降りてきたとしても、
そこでもういちど、新たな牛を追いかけてみたりもすることもあるだろうけれど。

そういう意味でも、「かるみ」にも、さまざまなステージがあって、
「かるみ」未満の、ただ軽いだけのあり方から、
生死を超えたステージや、宇宙進化の諸段階を経ていくような、
そんなステージにおける「かるみ」があるにちがいない。

ところで、この十牛図やその応用などについて、
松村潔『たましいのこと』を読みながら思ったのは、
現代においては、かつての時代よりもはるかに、
こうした十牛図的なプロセスを自分である程度俯瞰できるような
そんなあり方が極めて容易になってきているということである。
もちろん、そういうプロセスなどまったく目に入らないままに、
マネーゲームを事とするような方も夥しくいるわけで、
そういう振幅のなかで、十牛図的な視点を使って、
現代という時代をあらためて見つめ直してみるのも、
それなりに面白いかもしれない。