風のトポスノート624

 

あいだにこそ


2007.6.10

 

   出来事と出来事の間にこそ、人生の大部分がある。
    いまでは半分しか思い出さない
    あの喜びや悲しみ、あの恐れや絶望
    それらは単に人生のビーズ
    どんどん伸びる経験という首飾りに継ぎ足される。
   (・・・)
   出来事と出来事の間のためにこそ、わたしたちは生き続ける。
    子どもの笑い声
    あるいは峡谷をわたる風のため息
    それはわたしたちが人生のビーズをまた一つ集めるたびに
    わたしたちに聞こえる音楽となって心に拡がる。

   (ナンシー・ウッド『今日という日は贈りもの』
    角川文庫/平成19年4月25日発行 P.70)

ハレだけをむすびつけても
わたしがわたしになることはできない
思い出のなかにひときわそびえている
さまざまな出来事という山
山だけがつくる景色だけをみていると
裾野にひろがる野や谷、蛇行する川
そこに吹き渡る風の香りが
わたしを奏でているのだということを忘れてしまう

わたしという音楽は
音と音の間の沈黙のことなのではないか
音と音が隙間もなく結びつき
世界を覆いつくすとき
わたしはそこにはいられない
音が沈黙のなかに消えていくとき
はじめてわたしは音魂となって
それを音と音の間に静かに注ぎ込むことで
わたしという音楽が奏でられはじめるのだ

わたしはすでにわたしの血肉になって
ほとんど思い出すこともできなくなった
深い記憶を住処として生きている
忘れてしまうことでわたしそのものになっている
さまざまな力の妖精たち
その力がなくなれば
わたしは話すことや書くことさえ
できなくなってしまうことだろう
だからそれら見えない妖精たちが
わたしのなかに生きていることを
ときおりこうしてひとつひとつたどってみることは
ささやかだけれどとても大切な祀りになることだろう